十三、花火の後
この日、千央たちは風呂に入ってから、庭にでて花火をやり、早々に床についた。しかし駆け回るねずみ花火にロケット花火、ウネウネしたへび花火にはしゃぎ、チカチカ光る青や白の花火を見た後の興奮はさめず、中々寝付けなかった。そして少し鼻がむず痒かった、火薬の匂いを嗅ぎ過ぎたからかもしれない、と千央は思った。
そこで千央たちは、今夜は両方を仕切っているアコーディオンカーテンを開き、布団を寄せ合って話しをした。
始めは怪談話などをして盛り上がっていたが、しかし自然と昼間に聞いた脱走者の方に、話しが向いてしまうのだった。
「おかしいと思ってたのよ。台風で青年団が駆り出されるなんて、今までこんなことなかったもの。きっと捜索でいつもより人手がいったんだわ」季生子は猛りつつ言った。今日は別棟で寝ている毅や季生子、湖水も一緒であったのだ。
父親があの日青年団の一員として招集されていたことから、慶幾はその話題について千央たちより多少明るいと思われた、しかし案外そうでもないようだった。
「うちのお父さんは捜索には加わらなかったよ。土のう積みしかやってないってさ」期待されても困る、という調子で慶幾は言うのだ。
「なぁんだ。つまんないの」とアンコはふて腐れた声を出した。
つまらないと言われ、慶幾は少々躍起になって言った。「でもその人は一時、死んでいるかもって言われてたらしいよ」
「えぇ……、なんでよ」
「だって台風で大荒れの日にいなくなったんだぜ。逃げる途中何かの事故にあっていたとしてもおかしくはないだろ。以来誰も姿を見ていないんだし」
ふぅんと公平は言った。「ある意味空き巣が生存確認になったって訳か。皮肉だな。不謹慎だけど家族はホッとしただろうな」
確かに家族にとっては死んでいるよりか泥棒しても元気でいる方がマシだろう、と千央は思った。いや……しかし、そもそもその患者に家族はいるのだろうか?もし家族がいるのなら、管理責任問題云々でもう少し速く騒ぎになりそうなものだけど。
「でもその人が犯人である証拠は全然ないんだろ。他に犯人がいるのかもしれない」
慶幾は腕を組み直した。「状況的に見てそいつの可能性の方が高いよ。だって全部の事件は逃げた後で起こっているんだからさ」
「食い物が盗られてたんだっけ?」
「いや、なにが盗られていたかはわからなかったらしいよ」と公平。
「じゃあなんで泥棒に入ったんだよ」
「そんなこと俺に聞かれてもね」
「でもさ、精神病院から一体どうやって逃げ出したんだと思う?」
「さぁ俺、入院したことないからわかんないな」元気印の伊鶴は言った。
しかし、「僕は喘息で入院したことあるけど、逃げようと思えば逃げられると思うよ。体が動くならだけど」と真。
「あのねぇ、それは普通の病院のお話でしょう」真琴は呆れたように言う。「精神病棟は、外出に制限がつく場合があるのよ。病気の程度にもよるけどね」
千央の持つ精神病院のイメージは、先日行った落ち込んだ人達の集まる待合室と、曇ったガラスがはまり、白い格子の影のついた窓くらいだった。千央には患者の管理体制など、他のことについては知る由もなかった。しかし、その病院に収容されている人達は自分たちと別の惑星の人間のような気がするのだ……。
「普通の病院でも外出の規則はあるよ」真は言った。
「違うよ。病院じゃなくて病室の外への外出。精神病院ってのはね、病気がひどい患者の病室には鍵をかけておくんだよ。そこから抜けてきたのなら相当すごいよ」
むしろ、すごいというよりは大変なのだ。
「なら、逃げたやつは拘束されるほど病気は重くなかったって考えられるんじゃない?檻のある部屋から抜け出すなんて大事だろ。マジシャンじゃあるまいし」公平は言った、彼は常に穏健派なのだ。
これらは関心度の高く面白いニュースだったが、長く話を続けるにはネタが少な過ぎすぐに終わった。だいたい情報が少な過ぎるのだ。なにせ逃げた人物の性別、年齢、病状もわからない、何から何まですべて謎に包まれているのだから。
しかし千央は住民たちのその警戒ぶり見て、それなりの年格好でおそらく性別は男だろうということが推測できた。そして、鎌が盗まれたという情報から、住民たちが想像している脱走者の姿は、荒々しい、鎌を上段に構えた乱暴者に違いないと千央は思うのだ。これは他の皆も大方同じような考えだった。
「私チラと思ったんだけど、病院側は実は患者は逃げた直後、とっくに死んでましたって方がかえって都合がいいと思っているかもね」
「だって事件を起こしたりしてたら、病院が責任を負わされるわけだしさぁ。これからエスカレートして殺人事件でも起こってみなよ。病院の増設どころか、病院存続の危機よ」真琴はそう言いながらも、おかしそうに眉毛をキュイキュイと動かした。
「殺人とか……、なんて物騒なことを考えるやつなんだ」毅は呆れていた。「それに馬鹿らしい」
「怖いよぉ」と湖水は泣き声を出して、布団に潜ってしまった。
「もうこの話は終わりにして、湖水が怖がってる」アンコはよしよしと湖水で膨らんだ布団を撫でた。
しかし、怖がってるのは多分年少の湖水だけではない、と千央は思った。千央は部屋の脇へ視線をやった、いつもなら風を入れるために開け放されている窓が、今夜は閉じられていた。それは夕方から吹きだした風で特別涼しいという理由だけではあるまいと千央は思った。
脱走者は今も外でうろついていて、次の瞬間こちらに襲い掛かってくるかもしれないのだ。そのような幻想を千央は持ったのだった。
「そういえば、うちの近所でも変な人を見かけたことがあるよ。全身が赤い女」急に真が話し出した。
「“全身赤い女”?」真琴が聞き返す。
何やら怖い話のような気がして、千央は一気に興味を惹かれた。
「うん。本当に全身まっかっかなの。前にスーパーのレジに並んでた時、後ろの方に女の人がいたんだ。すごく背が高くって、赤のジャケットに赤のミニスカート……、赤のハイヒール靴をはいてた……。化粧も赤くって赤い唇に頬っぺた……、目の周りも……」
「おてもやんじゃないか」と公平。
「あと、真っ赤な色したストッキングもはいてたよ」
「それって、水商売の人だったんじゃないの?」アンコが聞いた。
「まさか、だっておかっぱだよ。その人の髪形」
「それって幾つぐらいの人?」
「30歳とか、35くらいに見えたかな。髪も染めてなくて黒だった。僕はジッと見たかったけど、ジロジロ見るなってお母さんに怒られちゃってさ。周りの見て見ぬフリがすごかったな」
「何買ってた?やっぱりトマトとかりんごとか赤いやつ?」
「ペットボトルのお茶を買ってたよ。大きいやつを何本も、もしかしたら買い出しかなんかだったのかも……」
あるいは罰ゲームのような気もする。
「その後はどうなったんだ?」
「普通に店を出ていったよ。それ以来見かけないな」と真は言った。「うちの近くには仙人が住んでんだぜ。噂の上でだけど」
次にそう言って、伊鶴は身を乗り出した。
「学校帰りに俺、良く寄り道する本屋があるんだけどさ。前からそこに仙人が来る、っていう噂が学校であってたんだよね。その人の正体は山で修行してる、仙人のタマゴだっていうんだよ。この本屋にはたまに息抜きで来てて、しばらく町をうろついた後、また山に帰っていくんだって」
「仙人!?」慶幾は吹き出した。
「俺も何回か隣で雑誌読んでるそいつに鉢合わせしたことあって、顔は知ってたからそりゃびっくりした。俺は普通にホームレスかなんかだろう、って思ってたからね。でも、一緒にいた友達はその噂を信じててさ。見かける度に話し掛けようとして、俺がいつもとめてた。その人は若くて、ヒョロッとした体型で、髪と髭がかなり長かったから、確かに格好だけ見れば、若手の仙人らしいんだよね」
「で、いつだったかな。急な雨に降られて、その本屋に雨宿りに入ったんだ」
その日伊鶴は一人で遊びに出ていた。にわか雨だったのか、それはすぐにやんだ。
「雨がやんで帰ろうとしたら、その仙人が本屋を出てこうとしたのに鉢合わせしたんだ。俺その時ちょうどヒマだったから、仙人の後をつけて行くことにした。本当に仙人なのかを見定めるためにね」伊鶴は雨上がりの道を仙人の後にひたすらついて歩いた。仙人はいつも幾分か大きめのよれたTシャツと色褪せたデニムをはいて、ベージュ色のチューリップハットを被っていた。そして黒い蝙蝠傘を杖のようについていた。男はゆっくり時間をかけて、町中を一周していった。
「全然面白いことが起きなくて、退屈だったよ。こちらに気づきすらしないし」と伊鶴は言った。
しばらく歩いた後、伊鶴は自分が見覚えのありすぎる場所に踏み込んだのを知った。そこは伊鶴の住むマンションの目と鼻の先を流れる河川の橋であった。
男は橋の下におり、住まいと思われるブルーシートで作ったテントから鍋やコンロを取り出した。腰を下ろして袋ラーメンを作って、食べ出した。伊鶴は男がラーメンを完食したのを見届け、それから歩いて十分もかからない自分の家に帰ったという。
「結局ただのホームレスだったんじゃないか」毅は少し不服そうに言った。
「そうだよ。ただ近くに住んでてびっくりって話だよ」
「でも友達はまだその兄ちゃんがただのホームレスだって知らないから、まだ仙人だと思ってるっぽいんだよね。この間会った時は持ってたお菓子を分けてあげたらしいよ」と伊鶴は続けた。
「お前、ヒドイな。ちゃんとそのこと教えてやれよ」と慶幾は言う。
「逆だよ。だって夢が壊れるし、かわいそうじゃん」
「でも、そのうち金をたかられるようになるかもしれないぞ」公平が寝返りをうちながら言った。「仙人に寄付しろ、みたいな感じでさ」
「いや、それがお菓子をやる時に聞いたらしいんだ」
「何を聞いたって?」
「だから、そのまんま“あなた仙人ですか”って」
部屋中に笑いがおこった。伊鶴の友人の言動も可笑しかったが、そんなことを出し抜けに訊ねられて、その人は大層面食らったに違いない。その心中を思うと余計に笑えた。
「何て答えたの?」アンコは可笑しくて堪らないというように聞いた。
「普通にいや違いますけど、って言われたそうだよ」
「よかったな、その人が善良な人で」
慶幾は安心したように言った。
「いやそれがさぁ」伊鶴が遮った。
「そいつ、今だにそのホームレスが仙人だって信じてるみたいなんだよね」
「おいおい、そいつ頭は大丈夫なのか?」
「多分大丈夫だと思う、ただ少し変わっているだけ」
と、伊鶴はこう言ったが、千央は伊鶴の少々純粋過ぎる友達が心配になったのだった。
その時ボンボン時計の鐘が、午前一時を告げた。そしてとうとう部屋の電気が消された。しかし、千央たちは全く眠たくならなかった。そこに、真琴が通っていた小学校で実際にあった怖い話があると言い出し、千央たちは喜んでその話を聞いた。「ええと……、私の行ってた学校にはいつからあるのかわからない古い人形があったの、多分何かの教材で使っていたものだと思うんだけど、その時は物置みたいなところに打ち捨ててあった。子供がままごとに使うようなミルク飲み人形で、頭にゴムがついてた。その髪留めに噂があって……、」
その人形は、屋上までの階段の踊り場に使わなくなった備品と一緒に置いてあり、毎日たくさんそこの前を通る最上級生たちの目にふれていた。しかし、生徒たちがそれに近づくことはめったになかった。なぜなら、その階段を上って行き着くところは立入禁止の屋上のみだったからだ。その関係で屋上と同じくその階段も自然と侵入禁止区域とされてきたのだという。
だからこそ、そこが物置として利用されている状況があったのだが……。
真琴は思い出すようにゆっくりと話した。
「その髪留めには呪いがかかっている、という噂があって……」
その人形の名はあすかといった。あすかは頭や腕、足はプラスチック製、お腹は布でできていて、手足を自由に曲げられた。口はおもちゃの哺乳瓶や自分の親指がくわえられるように独特の形をしていた。目は体を倒すと閉じるスリーピング・アイだった。髪は短くて金茶色をしており、その前髪に問題の髪留めが結んであった。
「その噂ってのがちょっと曖昧なんだけど、確か……、そう、夜中にその人形が校舎の中歩き回っていてあすかに机なり、靴箱なりに髪留めを入れられてた人は呪われる、って内容だったわね」
それは大抵、夏から秋にかけて起こり、狙われるのは決まって女子の持ち物だった。その時期になると一部の怖がりな女の子たちは少々ナーバスになり、交通安全のお守りを靴箱に置いていったり、自分で作った魔よけの札を机に入れたりして、あすかの髪留めの被害から持ち物を防衛していた。
しかし、それでも事件は起こったのである。「ある朝一人の女子の机にあすかの髪留めが入れてあったの。まぁそれ、私なんだけどさ」
いきなり話が核心に触れたため皆はエーッとのけ反った。
「ほら、これが現物だよ」
軽く真琴は言い、自分の頭から赤いゴムをといた。中学生くらいの年の子が使うには少し幼過ぎるような赤い星の飾りのついたものだった。普段、肩までの長い髪を垂らしているが風呂上がりや勉強する時などはそのゴムで髪を束ねていたのだ。
「そのゴム、なんで持ったままなんですか?」
「戻したらまた他の人に使われるでしょう。だから、自分が持ってるのが一番安全かと思ってさ」真琴はゴムの飾りを揺らし、チャリチャリと鳴らした。「でも私には二人姉がいて、同じ小学校を卒業してるの。だから髪留めのことを相談したんだ。そしたらそろってその髪留めは変だっていうのよ、偽物だって。上のお姉ちゃんの時から噂はあったけど、ゴムの色は黒だったはずっていうし、下の姉ちゃんの時は水色でガラスの飾りがついたものだったっていうわけ」
「良くわからないけど、少なくとも二回は代えられてるってこと?」
「ならそれは本物じゃないってわけ、よかったねぇ」
「なんだ。全然怖くないじゃん!!つまんねぇ」伊鶴は責めるように言った。
「この話の怖さがわからないかなぁ、お子ちゃまには」ヤレヤレ、と真琴はわざとらしく溜め息をついて言った。
一向に無くならない髪留め、つまりそれの意味するところは、長年に渡ってわざわざ呪いのゴムを補充しているやつがいるということなのだ。これは一人の人間がやっていることではないと千央は思う。つまり数年に一人が髪留めの噂を利用して、誰かを怖がらせるいたずらをし、また使えるようにゴムをあすかの頭に括っているのだ。こっちは同一人物の仕業だろうか?千央にはそれはよくわからなく、なんとなく不気味に思った。
この時千央が思いついたのは、“一番怖いのは生きている人間だ”とかいう言葉であった。
「その人形はまだ学校にあるんですかね」
「さぁね、多分残っているんじゃないかな。妹も弟もいないからわからないわ」真琴は言った。
あすかはまた呪いの髪留めをつけているのだろうか、千央はしばしとっくりと考えた。
その時ふいに物音がして、皆は動きを止めた。どこからか、小さな爆発のような音がしたのだ。その音は、タイヤが石を弾き出した時の音によく似ていた。
毅も同じことを思ったようだ。
「こんな時間に誰が来たんだろう?」毅は素早く布団から出て、窓側に立った。
「誰もいないぞ」毅は外を見て言った。
――パチッ、また弾ける音がし、千央はビクッとなった。そして隣にいた真琴と顔を見合わせた。真琴は怖がってはいなかったようだが、不審気な表情をしていた。
――パチ、パチ
「違う、こりゃあラップ音だ」公平は冷静な声を出した。公平は何かを見定めるかのように暗闇を見ていた。
風が毅の開けた窓をすり抜け、カーテンを大きく捲った。夏とは思えない、とても冷たい風だった、――寒い!!千央の肌に鳥肌が立った。
「閉めて」アンコが毅に言った。
続いてまたラップ音が響いた。今度はドミノ倒しのように連続した音だった。
「何かいる!!」
皆は布団の中に潜り込んだ。千央はそのすき間から、外のようすを伺った。誰かの犬のような荒い息遣いが聞こえてきた。皆はジッと黙り込んでいた。何かの影がさっと横切った。
「おばけの襲撃だぁ!!」いきなり大声があがった。
慶幾だった。それから、慶幾は大笑いした。つられて何人かの笑い声が起こった。「ウ……、ヒヒヒヒヒ!!」と、誰かがわざと甲高い声で笑うので、少し不気味だった。
この大騒ぎの中、小さな布団が大きく伸び上がった。湖水が目を覚ましたのだ、湖水は不安そうにぐずり、とうとう泣き出してしまった。