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十一、帰り道

 本当にそのとおりだ。千央は歯を磨きつつ、三浦プロパン(株)のカレンダーを見て思った。その時隣に毅がやってきて、身支度途中の千央とアンコに早くするようにと急かした。

 このカレンダーには毎日一つ、短い戒めや教訓、花ことばなどが載っている、8月の挿絵に描いてあるのは待宵草という花で、花ことばは“温和”と“協調”。今日の言葉は“健康こそ人生の糧である”だった。“バランスの良い食事・適度な運動・十分な睡眠”、そのとおり、特に睡眠は大切だ。しかし今日はゴッチを山まで探しに行く計画のため、早起きされられたせいで、千央は十分に寝られてなかった。その計画とは落とし穴箇所に皆で手分けして向かい、その道の途中や穴にゴッチがいないかを調べてくるというものだった。

 千央はあくびをかみ殺して、口から泡を出し青色のコップに水を汲み、口を濯いだ。増田家の水道水はどうしてか、森林の匂いがする。二人は顔を洗い、タオルで拭いた。洗面台の蛇口は水垢の鎧に被われて真っ白に濁っている。ゆっくり顔を上げると毅は予想通り仏頂面であった。

「ねぇ、何で二人ともわざわざ鈍くやるのさ」

 毅の問いに、アンコは飄々として答えた。

「それは毅が慶幾を迎えに行くって約束しないのがいけないんじゃないの」順調に回復したアンコは昨日の伊鶴の目撃話を聞いて感動し、すっかり慶幾を見直したようだった。

「気取ってて何だかいけ好かないと思ってたけど、案外いいやつだったんだね」とアンコは言った。

「そんな風に思ってたのかよ」と毅は小声で言った。「でも誘っても無駄さ。どうせ断るよ、あいつ。汚れる仕事は嫌いなんだから」

「あれ。でも、ゴッチを助けた時は普通に手伝ってたよね」千央は言った。

毅はそれを無視した。「あ。それに、あいつの家すごく遠いし。今日はゴッチ探しで忙しいから、そんな暇ないよ」

「じゃあ、自転車で行けばいいじゃないの」アンコはこれで解決と言った風に答え、千央はそうだねと頷いた。

 毅は笑い出した。

「そんなにたくさんの自転車うちにないよ!!」

「別に大人数で行く必要ないでしょ。毅だけで行ってくればいいじゃん」きっぱりとアンコはそう言い放ち、それで毅の笑いは一刀両断された。

…………。



 結局、増田家に自転車は三台しかなかった。なので他の子たちには先にゴッチを探しに行ってもらうことにし、千央、毅、アンコの三人はそれに乗り慶幾の家に向かって、山道を走っていた。

「着いたら何て言って誘えばいいんだよ」 毅はブルーシルバーの自転車を漕ぎながら大声で言った。一行は坂道を下り、耳元を切る風の音がうるさかった。

「普通に言えばいいんじゃない?ヨシク、一緒に遊ぼうぜ!!みたいな」アンコは薄いオレンジ色の自転車に乗って叫んだ。

「そんな変な言い方したくないよ。あとそのあだ名で呼ぶのは止めてくれ、慶幾をそう呼ぶのはあいつらだけだよ」

「えー、格好いいのになぁ」と、アンコは惜しそうだ。

 千央はパープルのママチャリを漕ぎながら考えた。そもそも毅と慶幾が直接喧嘩をしたわけではないのに、どうしてこんなにもこじれたのか、と。大体状況によって向こうに無言でレンタルされていく、この変な状態はなんなんだ……。建て前上何か義理でもあるのだろうか……?なんかとても奇妙で面倒臭い関係だ。

 三人は自転車で十分程走った後、慶幾の家に到着した。場所は殆ど山のふもとで、木造家屋がいくつも並んだ通りにあった。木の標札には黒く“平岡慶蔵”と彫ってある。

 毅は音符のマークがついた灰色のボタンを押した、まずピーン…、と鳴り、人差し指を離すと…ポーンと鳴った。千央たちはしばらく無言で突っ立っていた。しゃんしゃんしゃん……というクマゼミの鳴き声が周りから聞こえてきた。千央は鳴いているセミの声がなんとなく山と違っていることに気がついた。ここで聞くセミの声はとても騒々しい。山のセミの鳴き声は森が吸収しているのか、これよりずっとソフトだったのだ。

 玄関の戸は、霜柱模様の磨りガラスを銅色の格子が挟むようにして出来ていた。その戸が急に奮えだしたかと思うと、カラリカラリと軽い音がし、じれったいくらいゆっくり開いた。そしてすき間から恐る恐るといった風にナマコ形をした慶幾の目が覗いた。と、千央にはそう見えたのが、しかし彼にしては振る舞いが少しおかしいし、目の位置が明らかに低すぎて、ちょっと変だと気づいた。

「ア、麻ちゃん。慶幾いる?」毅が明るく声をかけた。

「居るよ、でも今から従兄弟たちと一緒にご飯食べに行くって」麻ちゃんは、本当に幼い声で言った。

「あー、そんならいいや。また来るから」 毅は一瞬引きかけた。しかし奥の方から慶幾の声したので、毅も観念したようだった。“慶幾、お客だよ”「誰?」“キャンくん”

 次に玄関に下りる物音がして、戸が完全に開かれた。廊下には大きな目玉のような一枚板の衝立が見えた。その横を麻ちゃんがピコピコと歩き奥の部屋に戻って行った。

 慶幾は後ろ手で戸を閉め、アンコに聞いた。

「風邪はもう治ったの?」

「うん。もう完全に大丈夫。昨日治ったの」アンコは愛想よく言った。「ねぇ、あれ慶幾の妹?可愛いね。それにすごく目が似てるね」

 慶幾は笑って否定した。「いや、妹じゃないし。それに別に可愛くもないけどね。……で、何か用?」

 よし出番だ、毅。千央とアンコは黙って毅が発言するのを待ったが、毅は黙ったまま何も言わない。仕様がないので、千央がことの次第を話した。慶幾は呆れた声の合いの手を入れながら聞いていた。

 ところで、演技だかは分からないが、話の最中に毅がどんどん首をうなだれはじめ、それを見ていたアンコが笑いをこらえていた。千央は両方に真面目にやってくれ、と思ったが、しかしこれが思いがけない効果をもたらしたようだ。

「ふーん、なんか。深刻っぽいね……」アンコのようすには全然気がつかず、毅をじっと観察しながら慶幾は言った。

「そうなの!!」勢いづいて、アンコは言った。これは誰が見ても演技過剰だ。「助けが遅れたら死んじゃうかもしれない!!」

 アンコは慶幾の肩を持って揺さぶった。慶幾は壁にぶつかりそうになり、悲鳴をあげるように言った。

「分かった!!分かった。協力するよ!!」

 毅はそれを聞いて、ひそかにニヤッと笑った。それを目撃した千央は、さっきの落ち込んだ姿は演技だったのか、と何となく悟った。

 慶幾が自転車を取りに行くというので、三人はそれについて行った。母屋の奥に自転車置き場がある。千央はふと、さっき会った女の子に言われたことを思い出して聞いた。

「ねぇそういえば、妹さんに親戚とご飯食べに行くって聞いたけど、よかったの?」「いいよ。どうせまたうどんに決まってる。それとあれは妹じゃないから」慶幾が話すところによると、近所で親戚がうどん屋を開いているらしい。それなりに美味しいが、いい加減うどんは飽きたそうだ。

「今日はカレーだよね」と毅は千央に聞き、「でも、ゴーヤ入りだよ」と、千央は答え、慶幾は「そりゃ、マズそうだ」と顔をしかめて言った。

 それから、四台の自転車は慶幾の家を出発し、山道へ向かった。行きと違って、帰りは上り坂であった。



 帰り道の途中。千央たちは昨日ゴッチや年寄り犬ミルコの話をした橋に差し掛かった。あっ!!急に毅が大声を出してブレーキをかけて、自転車を乗り捨てた。それで後続の三台も次々に停まった。「どうしたの?」千央は毅に呼びかけた。

「ケガでもした?」アンコは慌てて駆け寄り、毅の足を見た。

「いや、大丈夫だよ」毅は絶壁になった山肌を指差して言った。「僕あの向こうにも落とし穴を二つ作ってたのを思い出したんだよ」

「ついでだから僕たちで見に行こう、わざわざまたこっちに来るのも手間だしさ」

 確かにそうだが、ここからあそこに行くのも、幾分大変そうに思える。

「別にいいけど。あそこまでどうやって行くつもりなの?」当然の疑問だ、という風にアンコは聞いた。

「あのボートを借りたらいい。作る時もそうしたし」当然の答えだ、という感じで毅は山に指していた指を橋の下に移動させた。そこには青い一隻のボートが波に揺られて浮かんでいる。庭師の鷲崎さんのボートだ。

「よっしゃ、なら行こう」慶幾は川に向かうために、森に入ろうとした。

「ちょっと待って」千央は引き止めた。「自転車を隠しておこう、山道に四台も自転車が放ってあったら、何かあったのかと思われるよ」千央は対向車の運転手と何度か目があったことに気づいていたのだ。

 さて、皆は自転車を森に移し、橋のたもとまで下りていった。

「これ毅の家のボートなの?」アンコはボートに乗り込みながら聞いた。

 “違うよ”と毅は首を振った。アンコはえ、という顔になった。

「勝手に使ったりして、怒られない?」

「鷲崎が帰ってくる前に、元のところに戻して置けばバレないって」毅は楽観的に言った。

 ボートは上から見たよりも小さく、四人が乗りこむには大分窮屈に思えた。しかしやがて全員を乗せ、ボートは岸を離れた。慶幾が右側を漕ぎ、毅が左側を漕いだ。ボートはときおり左右に傾き、周り道をしながらも、ゆっくりと対岸へと進んで行った。千央は川の水を掬い、匂いを嗅いだ。アンコが船の先に座り、はつらつと先導をした。

 川の中程まで進み、例の檻にかなり近づいてきたので、千央はミルコの姿が見えないかと気になり、中をじっとよく見ていた。檻は40メートルくらい上にあり、下から仰ぎ見ると内部が植物の侵攻を受けていることが窺えた、千央はその中に白い毛の生えた生き物がいるのがちらと見えた。

 ねぇ、と千央は聞いた。

「ミルコって白い犬だからミルコなの?」

「いや、ボクサーの雑種だから基本的には茶色っぽいはずだよ。でも年取って最近白髪は増えたかもね。なんで?」

「変だな。だって、さっき檻の中に白い生き物がいたよ」

 千央が言うと、三人も格子の窓を見た。

「何も見えないよ。気のせいじゃないの?」

「絶対何かいたって、さっきまで見えてたもの」千央はやっきになった。

「そんな短期間で急に真っ白になるなんて、おかしいよ。この前見た時は確かに茶色だったぞ」毅は目を細めた。

「おい、もしかしてミルコはもう死んじゃってて、今は別の犬が入っているのかもよ」慶幾が言った。

 この不吉な推測にそんなぁと毅は不安そうに言った。

「じゃあ……、多分見間違えたんだろ。知らないよ俺は」

 慶幾はさっさと船を漕ぐのを再開した。

 空の上からは、鳥の鳴き声とバー、バーという変な声が聞こえてきて、千央は首を傾げた。

 数分後、陸にあがった一同は、まず一つ目の落とし穴のところへ行った、場所はあの米岩の側である。千央たちは中を覗きこんだが、ゴッチはおらず黒い穴がぽっかり口を開けているのみだった。

「そもそもゴッチがこんな遠くに来るわけがないんだよ」慶幾は言った。

 まぁ、実際そうなのだ。船を使わずにここの山に来るには、川の周囲をぐるりと遠回りしてこなくてはならない。それにわざわざ危険な道路を渡る理由など、ゴッチにはないだろうし。

「で、もう一つはどこにあるの?」アンコは訊ねた。

「もっと上の方だよ」毅が心底後悔しているように言った。

「なら鷲崎の家の近くを通るな。じゃあ、マリーアントワネット様に会いに行けるな」

「マリーアントワ?なにそれ?」

「ミルコのこと」慶幾は死刑直前、白髪になったフランスの女王マリーアントワネットとミルコとを重ね合わせて言っているのだ。「もう別の犬かもしれないけど」

「お前な……」毅は少々怒ったように言った。


 目的の場所は山の中腹あたりにあった。樹木がすき間なく生え、葉や枝が分厚く重なり合っている。その形はまるでドームのように見えて、まるで家全体が卵の殻に覆われているようだ。

 その中は穴蔵のように一段暗くなっており、姿は見えないのに動物の気配や鳥の声が絶えずしていた。少し不気味だったが、なぜか守られてるような感じもするところだった。千央は深呼吸して周囲の湿気を帯びた冷たい空気を吸った。

 毅は全く躊躇せず、中にあった小さな家を横切り、向こう側へずんずん進み、奥にあった道へ入って行った。慶幾・アンコ・千央の三人もそれの後に続いた。

 中はまるで密林のようだった。木のすき間はモジャモジャに絡まった蔦とたくさんの枯れ葉で埋まり、一番奥の場所に大きな鉄柵があるのが見えた。足元にまで草が伸びきり、足場が悪く、皆歩くのもとても苦労していた。

 千央がこれで何度目か、と思いながら足に絡まった蔦を毒づきながら解いていた時、毅が急に「わあっ!!」と声を出すと、草むらを一足で飛び越え、ダーッと檻の方へ走って行ってしまった。

 千央たちはそれを大急ぎで追いかけた。毅は両手で檻の柵を持って、中の物を凝視している。なにやらただならぬ不吉な気配がしていた。毅はびっくり顔で振り向き、こちらを見て口を開いたり、閉じたりパクパクさせた。

 千央は、毅の肩越しに恐る恐る檻の中を覗き込んだ。中には、…………。

「ゴッチ!!?」アンコが大声をあげた。

「うぁぁっ!!」慶幾が素っ頓狂な声を出した。

 檻の中には白い大きな牝山羊、すなわちゴッチがいた。ゴッチは元気そうにメェメェ鳴き、毅の手の平にぐいぐいと鼻面を押し付けた。毅は感動して泣いていた。

「ほらね。言ったでしょう!!」千央は勝ち誇っていった。下の川から見えた白い物の正体は他でもない、ゴッチだったのだ。

「なんでこんなところに入ってるんだろ?」ゴッチの入っている檻をまじまじと見ながら、アンコは言った。

 ゴッチは千央たちから顔を背け、格子の間から飛び出た葉を食みはじめた。思えば案外この場所はゴッチにとって居心地がよかったかもしれない。この檻はほぼ正方形をしていて、高さは千央たちより少し大きいくらいだった。周りはたくさんの植物に覆われ、ピンクの洗面器には水がたっぷり満たされているし、とりあえず食うには困らない。お菓子の家とはいかないまでも、食料庫に住んでいるような感じだろう。それに洒落た窓もある。千央は奥の方に目をやった、木の葉の間からは真っ青な空が見え、さっき千央たちが渡ってきた川や連なった山脈が望めた。

「鷲崎がゴッチを見つけて捕まえててくれたんじゃないかな」早速毅はガチャガチャやかましい音をたて、錠を外そうとしていた。

「ああもう、うるせぇな!!」慶幾は叫んだ。

「だって、開かないんだよ」毅は怒ったように言った。錠は檻同様、金属製の堅牢なもので、いくら揺らしてもとれそうにない。

「これ鷲崎のものなんだろ、なら鍵も持ってるだろうから、言って開けてもらえばいいじゃん」慶幾は腕にはめたデジタル時計を見て言った。「もう昼飯の時間だから毅の家にいるかも知れないから、電話してみよう」

 もうそんな時間かと思い、千央は急激にお腹が減ってきた。

「でも電話するってどうやるの?誰も携帯電話なんか持ってないよ」アンコは反論した。

「あっ……?」慶幾はやっぱりダメか、という顔になった。

「いや、電話ならあるよ」毅はなにやら思いついたように言った。他の三人は毅の顔を見た。

「分からない?鷲崎の家に電話があるはずだろ、それを借りようぜ」そう言って毅は、第一級のたくらみ顔になった。


 鷲崎さんの家は木造の平屋で、建ててから随分と時間が経っているように見えた。何しろ家壁や柱が屋根瓦と同じ黒色をしていた。格子柵のついた出窓の隣からは傘付きの煙突が突き出ていて、千央はこれは一体何に使うものだろうかと思った。

 まず、毅は玄関戸を開けようとしたが、やはり鍵が閉まっていたようで、開かなかった。次に毅は玄関マットや植木鉢の下を探しはじめた。どちらも鍵の隠す所としてよく知られた場所だ。慶幾は郵便ポストを開いていた。

「なぁ、これって道徳的な問題がないか?」鍵がかちりと音をたてて開いた時、慶幾は聞いた。

「問題もなにも、慶幾がこの鍵を見つけたんじゃないか。功労者くん」毅は意気揚揚、引き戸を開けながら言った。この鍵は慶幾がポストの扉を開けた途端、そこからポトリと落ちてきたものだったのだ。「単純な鷲崎に感謝だな、うん」

「君には良心というのがてんで欠落してるよ」慶幾はぶつくさ言いながら、毅に続いて玄関に入っていった。

 家の中は外同様薄暗く、そして湿った空気が流れていた。側にあった靴箱には、白いレースのクロスが掛けてあり、その上には大小さまざまなかたちの木彫り人形があった。ねずみ、ウシ、馬、うさぎ、猿、トラ、犬など……、全部で12体ある。これは干支の動物たちに間違いない、と千央は思った。

 毅は早速、その靴箱の脇にあったサイドテーブルの上のコードレスフォンを取り上げ、ボタンを押した。

「あ、もしもし?水野さん?……今鷲崎さんちにいます。はい、もうすぐ帰ります。あの、公平たちはもう帰ってます?じゃ、代わってください……はい」

「公平?あー、ゴッチ見つかったよ。鷲崎の家にいた、うん。知らないけど、なんかミルコの檻に入ってやがんの。うん。で、それでさ、鷲崎に檻の鍵がどこにあるか聞きたいから代わってくれない?え、まだそっち来てない?あ、そう。ならいーや。うん。じゃーね、バイバイ」

 毅は電話を切り、ため息をついた。

「鷲崎はご飯食べに来てないって」

「そう。なら、また出直すしかないね」

千央は言った。「あれ、そういえばアンコどこいった?」

 玄関にアンコの姿はなかった。ほどなくして、外から犬の吠える声が聞こえてきた、注意して聞くと人の喋り声も。千央たちが表に出ると、大木の下にアンコと鷲崎さんがいた。側には引き綱に繋がれた茶色い犬がおり、アンコの足首にしがみつくようにして寝そべっていた。あれがミルコだと千央はすぐに分かった。ミルコは巨大な腹を大きく波打たせ荒々しく息をしていた、恐ろしいぎざぎざの歯が並んだ口は閉じると大きく曲がり“へ”の形になった。しかしその目は黒糖の飴がけのように真っ黒で、つやつや光り、親しげでなんとなく頼りがいがありそうにも見えた。

 毅が駆けつけるとミルコはよし、存分に撫でろというようにごろりと腹を出した。毅はわしわし腹を掻いて、その通りにした。

「皆どうしたの?」鷲崎さんは言った。鷲崎さんはいつも黄色い麦藁帽をかぶっている、それを持ち上げた。口元を見ると、前歯が数本欠けていた。

 毅は鷲崎さんを見上げて話した。避難所に行く時、ゴッチをよりによって川の側に繋いだままなのを思い出したことや、台風後行ってみるとゴッチの姿はなかったこと、もしかしたら以前嵌まってしまった落とし穴にまたかかってやしないかと見てまわっていて、その途中で鷲崎さんの家の檻にゴッチが入っているのを見つけたということなどを。鷲崎さんはふんふんと相槌をうちながら聞いていた。

「ああ、ゴッチはずっとうちにいたんだよ。ボクが台風の来た日、あすこにいたゴッチを見つけて、放っておいたらかわいそうだと思って……。君たちずっと探してただね。ごめんね」

 毅は笑った。「いえ、助かりました」そして、感謝の言葉を言った。「預かってくれて、ありがとうございました」

「それで、あの、ゴッチをうちに連れて帰りたいんですけど」毅は急に真面目な表情になって言った。

「いいよ」鷲崎さんはあっさり答えた。「それで、あのねぇ。……落とし穴って何なの?」

「イノシシ捕獲用に掘った穴です」慶幾が言った。

「前におじさんにに昔大きなイノシシがいたって聞いたから、捕まえようと思って皆で作ったんです。それにゴッチが嵌まっちゃったんですよ」

「ふーん、そうなの。なら僕も落ちないように、注意しないと」鷲崎さんはのんびりと言った。

「それで、肝心のイノシシは捕まえられたの?」

 千央たち四人は揃って首を振った。

「いいえ全然でした。捕れたのはゴッチだけです」

「あらら。それは残念、無念」と言い、鷲崎さんは体を反らし、笑った。

 その後、鷲崎さんは家の奥から鍵を探してきて(千央たちが勝手に入ったことには気付いてないようだった)、檻を開け、ゴッチを外に出してくれた。それから山を下っていき、四人と一匹を二グループに分け、向こう岸まで送ってくれた。二度目に鷲崎さんがボートに乗り込んだ時、

「あれ?今日はご飯食べに来ないんですか?」とアンコは言った。

 鷲崎さんは「今日は休みでしょう。だから食べにはいかないよ」と答えた。千央は今日が日曜日だったということにはじめて気がついた。

「でも、せっかくだから食べにきたら?」毅はそう言って誘った。周りで皆はそうそうと頷いた。

「もう食べちゃったから……」残念そうに言い、

「でも、誘ってくれてありがとう」と、鷲崎さんはこちらに向かい、小刻みに手を振った。


 さよならをした後、カラカラと音をたてながら千央たちは自転車を押して、ようやく帰路についていた。

 ゴッチは先頭に立ち、熱々のアスファルトで蹄を打ち鳴らして、ポックリポックリと歩いていた。

「よかったね、無事見つかって」千央は一連のゴッチ行方不明騒動について思いながら、毅に言った。特に今日の不法侵入と、避難の時の毅の落ち込みようについて。

「ああ。よかった、よかった」と毅は言い、首を傾げる仕種をした。それから千央に向かって、秘密を暴露するように囁いた。

「実を言うと、僕は最初。鷲崎はゴッチを自分が飼いたいから閉じ込めてたのかと思ったんだ。でも、違ったんだね」毅は、少々バツの悪そうな顔になった。

「そうなんだ」千央は頷き、白い毛の生えたゴッチの首から背中までを一直線に撫でた。その毛は太く、丈夫そうでパサついている。その体は堅くて温かい。

「ねぇ、鷲崎さんって一人暮らし?」

「うーん。お父さんがいるけど、今入院してるから一人暮らしと言えるかな」

 毅は考えながら答えた。千央は言った。

「じゃあ、今日の晩ご飯に呼んであげたら?」

 アハハ、と毅は笑い声をあげた。

「えらく鷲崎のこと気にかけるね。もしかして好きなの?」毅は、好きの意味をわざと取り違えるようにしてからかった。

「別に。まあまあかな」千央はからかいには乗らず、顔をしかめ、首を捻った。千央はただ、孤独で普段毅に冷たくされがちなあの人に、たまには好意を寄せた行動をしてもいいのではないかと考えただけのことである。例え少々変った者だとしてもだ。彼はあの容貌のせいで奇異に思われるが、無害で良い人なのだ。現に彼はゴッチを助け、同時に毅を助けた。だから毅はもう少し恩を感じてもいいくらいだろう。しかし、今回のことで毅の鷲崎さんに対する感情は随分良くなったに違いなかった。

「ところでさ、ゴッチはどこに繋いでおくつもり?」連れ帰ったところで、また逃げるのではないかと思い、千央は聞いた。

「ああ、今回囲いに入れとけば逃げないって分かったから、庭の隅に小屋かなんかを作ってもらおうかと思ってる。それまでは納屋かなんかで飼えばいいさ」

 随分と大掛かりだな、と思いながら千央は聞いた。

「でも家の人が飼うの駄目って言ったらどうするの?」

「多分大丈夫だよ。はじめから飼い主が見つからなかった時は、うちで飼うつもりだったから」

「ふーん、そっか。じゃあ、小屋作りは鷲崎さんに手伝ってもらえば?」

「えっ。そうだね。あいつ大工仕事とか得意そうだし、今度会った時に頼んでみようかな」

 毅はウキウキと楽しそうに言った。



 さて、その日の楽しい夕餉の後、千央は祖父に電話を駆けようと受話器を取った。

 千央の家は歯医者で、普段は午前中から夕方までが祖父、午後あたりから夜遅くまでは父が勤務していた。なので、午後八時ともなれば祖父は自宅のマンションに戻っているはずなのだ。

 数回の呼び出し音の後、祖父は電話に出た。

「はい、こちら藏内ですが」

「あ、もしもーし。おじいちゃん?私だけど」千央は爪を弾いた。

「おお、千央か。久しぶり、元気しとったか?」

「まぁ元気だよ。そっちは夏バテとか熱中症にはなってない?最近暑いからさ、気をつけてよね」つい先日、自分が熱中症になったことは棚に上げて千央は言った。

「栄養とか水分をちゃんと摂らないと駄目だよ」これはアンコからの受け売りだ。

「大丈夫大丈夫、心配いらん。病院はクーラーが効いとるし、今もシチューを作ってたとこでな」

「またシチューなの?好きだねぇ」

 祖父は家ではいつも着物をつけているのに、食事は完全に洋食嗜好だった。彼は今も毎朝堅いフランスパンにバターをつけて丸齧りしている、ある意味歯医者の鏡のような人物なのだった。数年前に、妻である千央の祖母が亡くなってからは自ら腕を振るい、食事をこしらえていた。

「キャンプは楽しいかい?」 祖父は千央の行き先がキャンプだと思っているらしい。丸っきり間違っているわけではないが……。

「案外楽しいよ」

 千央は山にイノシシがいるらしいことや、釣りに行ったこと、宿題が思ったよりはかどってないことなどを話した。

 あ、そういえばね、千央は言った。歯医者である祖父が興味を示しそうなネタがあるのだった。

「こっちにゴッチっていう大きな山羊がいるんだけど、その山羊前歯が一本もないんだよ」

「ほぉ、その山羊は年寄りなのか?」

「さぁ、何歳かはわからないんだよね。だって……、――」

 千央はその後ゴッチが飼われることになった経緯についてしばらく喋った後、電話を終えた。

 その際、蚊に刺されんようになと祖父に忠告されたのだが、この涼しい山では森の中以外にほとんど蚊はいないのだった。

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