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十、夏風邪

 千央は服をひっかけないようにフェンスへのぼった。太陽の位置は際だって高く、びしょ濡れに湿った土地を乾かしていった。道ばたの咲き終わったアジサイは、時間をかけてをじっくりと天然のドライフラワーに仕上げられた。とはいえ土を掘り返すと、中は黒く湿り気を帯びた土が顔を出した。

 あの足音が聞こえた直後、千央たちもいじめっ子たちも出口に殺到したが、素早いのも、地の利があったのもあちら側であった。彼らは隣の理科室に出てしまうと、素早く扉を閉じ、内側から鍵をかけた。準備室側には鍵がついていなかったので、千央たちは完全に閉じ込められた格好になった。仕方がないので、千央たちは窓から外へ逃げた。そのようすを慶幾は困惑しきった顔で見ていたが、結局あれきり、慶幾とは会っていない。あの日雨に降られたアンコと伊鶴は増田家に帰った直後、ひどい風邪で倒れてしまった。唯一近所に住んでいた慶幾はうつらないようにという配慮から、一時家に帰されたからだ。

 そのため、このことを知っているのは千央だけであったが、しかし、毅とその話は一切していなかった。こちらから訪ねた方が親切かもとも考えた。けれども、千央は元来相談を受けたり共感するようなことが得意な性質ではないので、あちらから言ってくるまで、とりあえず聞くのは辞めておくことに決めた。心配したが、当の本人はとても元気であった。「我が家には狐がいっぱいいるね」と面白そうに毅は言う。

 おそらく常に咳の音が聞こえてくる、この状況のことを言ったのだろう。まず伊鶴とアンコが熱を出し、次に幼い湖水が咳をするようになった。そして世話をしていた園さんにもうつってしまった。

 千央ははじめアンコたちは雨で体を冷やしたせいで風邪をひいたのだと思っていたが、湖水や園さんまでが熱を出したのを見ると、元々夏風邪が流行っていたのかもしれないなとも思えた。

 これは案外重要なことであった。なぜなら慶幾たちの意地悪のせいで風邪をひいたわけではないとわかれば、千央の恨みの気持ちも少しは薄らぐというものだからだ。

 とにかく、ここ数日前から増田家では動けるのは千央たちだけになっていた。それで当然この家の家事は分担し皆でやることになったのだ。この当然というのは毅が言ったことだが、彼は妙に張り切っていて、この非常事態の監督役を喜んで引き受けた。

 千央は洗濯をやり、毅はサイズの合わないエプロンを着てまで掃除に精をだした。しかしやはりというのべきか、部屋の角には取り切れなかったほこりが溜まり、洗濯物は変にガサガサした仕上がりだった。さらに干し方が悪いのかタオルは歪んだまま乾き元に戻らない、千央の洗ったシャツをきると皆なんだかみすぼらしい、よく見るとシャツはちりめん皺だらけであった。

 毅は大きな掃除機がうまく扱えないようでとても苦労しているようすだった。掃除機がうまくついてこないと言い、来た道をいきつもどりつしていた。

 目下一番の問題は食事をどうするかで、誰もご飯の炊き方さえ漠然としか知らなかった。卵を焼いてみれば、洗うのが嫌になるほどフライパンに身がくっつき、茹でればなぜか必ず割れ、レンジに入れればやっぱり爆発した(最後のは忠告したはずだが)。

 さらに病人のためのおかゆを作ろうとしたら混ぜすぎて米粒が無くなり、のりのような代物が出来上がった。公平はこの出来上がりを見て、幼稚園の時に使ったデンプンのりにそっくりだ、と言った。結局、おかゆは作らなくてよかったことが半時間後判明した。毅が仕込んだ炊飯器を開けると、水加減を間違えたらしく、見事なおかゆが炊きあがっていたからだ。毅は皆から非難とからかいをうけ、そのことでしばらく臍を曲げた。

 仕方がないので缶詰の煮さんまとバラバラ事件のようになった失敗玉子と一緒に食べた。缶詰も玉子もまずくはなかったのだが、疲労のためかついつい弱音が出た。

「卵さえまともに食べられないのか……、僕らそのうち飢え死してしまうよ」と真は悲観的に言った。

 少し大袈裟だと千央は思った。毅は生で食えと豪気に言い張った。しかし、僕には生卵にアレルギーがあるのでそれは無理だ、と真は言い返した。

 一方千央は内心うまい、うまいと思いながらおかゆを食べた。おかゆは昔から千央の好物だったからだ。何故かは分からないが、母は千央が怠け者であるからだと言う、噛むことさえ面倒臭がっているのだ、と。

「このメニューじゃ明らかに野菜不足だわ。タンパク質過多よ」病床にいたアンコはタンパク質の多い食事は腎臓に悪いと言い張った。

「心臓に悪かろうが、頭に悪かろうが今食べるものはこれしかないんだから。とにかく黙って食って、力つけろ。それか黙って食うのをやめろ」と公平はやり返した。

 そんなこんなで自分達だけで食事作りをすることに降参した千央たちは、園さんに相談した。

 園さんは咳と笑いをこらえつつ、メモを書いた。

「そうね。じゃ、少し遠いけれど、下のドラッグストアまでおつかいにいってもらおうかな。これ、買ってこられる?」



 そんなわけで、千央たちは近道である店の駐車場のフェンスを大きな袋を抱えて次々飛び越えた。これらにはペットボトルを幾本かと、冷却シートやパン、おかず等がたくさん入っていた。着地の時、レジ袋は勢いよく上下に跳ね揺れ、破れそうになり、千央は一瞬ヒヤリとした。

 近道である山中の入口辺りで、かたつむりが強烈な日差しを避けて森の日陰に慌てて退散して行くのを千央は何匹か見た。台風の後の雨上がりは、彼らの天下だったに違いなかったが、しかし彼らの天下ももう終わりを迎えたようだ。土に銀色に光った筋がついていた。

 一方、脚の早いアマガエル達は一足先に保護色をした葉っぱの下にすでに収まっていて、ふいに飛び出してきては皆をびっくりさせるのだった。

 さらに道を下って行くと、先の方に二車線がある、山にそった緩やかなカーブが多分山頂までずっと続いている、まるで巻貝みたいな形をしていた。こちら側の道には川の下流があり、まだカフェオレ色の水が流れこんでいて、生木と土の匂いがした。心配された地滑りなどはおきなかったが、まるですき鋏で梳かれたかのように、山全体の木々がこざっぱりとしている。

 千央は、道路を挟んだ向かいにとても面白いものを見つけた。山に窓がついているのである。いや、実際はそう見えるだけだ。山の斜面は急でほぼ垂直にある、樹木や蔦がかなり過密して生えているのだが、その中腹辺りに格子の窓がついている。山壁そのものが木に覆われた建物で、それに窓を設えているかのようだ。

 毅にそれを言うと、いきなり窓に向かって吠えはじめたので、千央はびっくりした。

「あそこにはね、馬鹿でかい犬をがいるよ」と毅は教えた。

 毅は犬を呼ぶようにもう一度吠えたが応えはない。首を傾げ季生子は言った。

「おかしいな。いつもはこうやるとうるさいくらいに吠え返してくるのに、あいつどうしたんだろう」

「あそこの犬はミルコっていって、すごく年寄りなんだ。だから歯は抜けて口の周りがダフダフになってる。こんな風に」毅は上唇を両手でつまみながら言った。「昔は猟犬だったんだって」

「年寄りなら夏バテじゃないかな?うちのじいさん犬はエアコンを着けてやらないと夏はゴハンも食べない」と真。

「でも、あんなとこに檻を置くなんて不便じゃない?危ないし、行くまでに落ちそう。大体どうやってあそこまで行くの?」

「少し昇った奥の方に家があるんだ。鷲崎って人の家がね」

 その名前には聞き覚えがあった。千央はしばらくの間記憶を巡った、そして思い出した。鷲崎があの妙な格好の庭師のことであるということを。

「鷲崎って、あのいつも庭にいる人のことか?」公平も思い出したのか毅に聞いた。

「その人だよ」と毅は答えた。「下を見てよ。あそこにボードが置いてあるだろ。いつもあれに乗って裏側までぐるっと周りこんで行ってるよ」

 見下ろすと、橋の袂に公園にあるような青い手漕ぎボードが着けてあり、対岸までロープが張ってあった。

「なんでまたこんな面倒臭いところに家を建てたのかな」

 毅は笑って答えた。

「最初はこんな面倒臭いところじゃなかったんだよ。道路が出来て道が新しくなってから、行く道を変えざるを得なくなった。確かに車で行くのには便利になったんだけど、鷲崎はいつも歩きだからね。よっぽどこっちの方が速いんだって」

 千央は改めてそれを見上げた。山の斜面は、本当にお伽話に出てくるお姫様が閉じ込められた城のように見える。檻は格子のついた窓なのだ。そこから首を出すのはしかし年寄りの犬、というのが中々面白いと千央は思ったのだった。

 その話の最中、毅は油断のない草食動物のように始終きょろきょろとしていた。無論、何かに狙われているわけではない。ゴッチを探しているのである。

 台風が完全に過ぎ去った後、千央たちはあの崖下の秘密基地の場所に行ってみた。そこに生きたゴッチの姿はなく、また死んだゴッチの姿もなかった。例の穴抜けの術でゴッチは逃げ去っていたのだ。千央は少なからずホッとした。そして、皆で実況見分の真似事をした。

 真琴はゴッチを繋いでいたロープを持ち上げて驚いた声を出した。ロープは綺麗な輪っかになっている。

「この縄、繋ぎ目が解かれてないし、全然緩まってもないね。本当に穴ぬけできるんだ」

「スモークゴート・ゴッチ」

 真はつぶやいた。

 公平は言う。

「ゴッチは雨が降り出す前か、その途中で逃げたみたいだね。止んだ後なら、足跡が残るはずだもの。こんな風に」

皆は足元に目をやった。地面は雨でぬかるんでいるので、歩けば足がめり込み靴跡がくっきりとつくのだ。千央が周りを見ても、動物の蹄らしき物はなかった。

「それにあれを見てよ」川原には石が綺麗に敷き詰められているが、それがあるラインを境にしてバラバラに乱れている。おそらくあそこまで川の嵩が増えたのだろう。それを見る限り、大して増水はしていなかったらしい。

 それらを合わせて考えた結果、ゴッチは「生きている」というわけになったのだが、その姿を見るまでは完全に安心とはいえなかった。

 もしかしたら川に落ちて流されたんじゃないのか、という不吉な意見が出たことを千央は思い出した、ここは山の川が最後に行き着くという。千央は川にかかった橋から水面を見下ろし、安堵した。そこに死体が浮いていたなら、やはりあのお腹は短命の暗示だったのだな、と思うのだが、もちろんそこにゴッチの死体はなく、清い水が弓状のさざ波を形作りながら流れてくるのみだった。

「ああ、やっぱりゴッチに会うのは何ヶ月か後まで待つしかないのかなぁ」

 毅は失望したように、ため息をついて言った。

「私思うんだけど、ゴッチはまた落とし穴に嵌まってやしない?」と真琴。

「まさか、それはいくらなんでも……二度も落ちるか?」毅は疑いの声を出した。しかしやがてひらめき、納得した顔に変わった。「いや、あいつ少し間が抜けているから、ありえるかもな」

 季生子は笑って言った。

「そのへんはしっかり飼い主に似たのよねぇ。うわっ、ちょっと!!」

「よし、じゃ明日は落とし穴をまわってみよう」毅は季生子の首ねっこを掴み、元気よく歩き出した。



 途中、牛乳屋の直売所で牛乳と小遣いでアイスを買い、食べながらしばらく歩いた。アイスはバニラの香料が入っていないらしく、普通の牛乳よりかよっぽど牛乳くさかった。

 店と家の中間ごろのちょうどカーブを曲がった時、丸く整えられた生け垣に囲まれた家が見えてきた、そしてその脇には見覚えのある白黒の車両が留まっている。よく見るとそれはパトカーであった。

 千央はパトカーに興味津々で近づいた。この家で何か事件が起こったのだろうか?

「何かあったか聞いてくる」毅はコーンの紙を丸めてポケット入れ、白い砂が敷かれた私道に入っていった。

 千央たちは入るわけにもいかないので、敷地と道路の間をなんとなくいったり来たりして待っていた。家は静まりか千央、緊張感もない、どうやら大事件といえるようなことは起こってないようだな、千央は思った。

 しばらくして毅が走って戻ってきた。毅は随分興奮したようすで言った。「泥棒が入ったんだってさ!!」

 毅の話によると、この家は空き巣被害にあったということだった。何を盗られたのだと聞くと、まだそれは分からない、とりあえず分かっているのは、住人が避難所から帰ってみると留守中に家に誰かが侵入し、部屋を荒らした後があった、ということだけだと言う。

「ええ、じゃ、台風で避難している時に泥棒に入られたってこと?」「うん。なんせ足跡が部屋中にべったりついてたよ。あれ、後片付けが大変だろうなぁ」今日の主婦業経験のせいか、毅はとても所帯じみた視点で意見を言った。板の間のみならず、畳やマットレスにも侵入者の足跡がたっぷりな泥とともに白く残っていたらしいのだ。現場を実際に覗かせてもらったことを、千央はとても羨ましく思った。

「鑑識の人が指紋とか取ってた?あれ、アルミニウムの粉を使うらしいね」真が訪ねた。千央もサスペンスドラマで、耳かきの上に着いているポンポンのようなもので指紋を浮き上がられせているのを見たことがあった。

 真の問いに毅は“それはわからない”と首を振った。今は盗られたものがなにかを調べている最中だったそうである。

「それにしても、皆が大変な思いをしてる時に泥棒に入るなんてとんでもないやつだな。……これが火事場泥棒ならぬ、水場泥棒ってやつかな」季生子は憤慨していたが、やがて一人笑いだした。

「勝手に家に入られるなんて、すごく気味が悪いだろうね」真琴はしかめ面で言った。

 しかし千央は、暴風雨で大変なことになっている時に、大型テレビをふぅふぅ言いながら運ぶ間抜けな泥棒の姿を想像し、不謹慎ながらも笑ってしまった。しかしふと、千央は増田家にも泥棒が入っているかもしれないという疑いを持ち、言った。「毅の家には入ってないよね」

「まさか、そんな汚し屋に入られたんなら、とっくに誰かが気づいているはずだよ。うちが普段からとんでもなく汚いみたいじゃないか」

「でもこのまま園さんの風邪が長引いたら、いずれそうなるかもしれないよ。私たちの家事のスキルといったら……ねぇ?」季生子は笑い、首を竦めた。

「……なぁ、俺ら避難する時、戸締まりをちゃんとしてたっけ」公平はつぶやいた。彼は急に心配になったようだ。



 家に着くと、咳は前ほど聞こえてこず、患者たちは大分楽そうになっていた。毅が園さんに近所の家に泥棒が入ったという話をすると、園さんは険しい顔をした後、毅に家の貴重品をチェックをするように頼んでいた。

 普通の家の貴重品は預金通帳や宝石だろうが、この家の盗まれて困るものとはなんだろう、と千央は考えた。毅は早速引き出しを開けて中身を確認していた。金品以外ではやはり、霊能者のカルテではなかろうかと千央は思うのだ。何人もの個人情報が入っているし、おそらくもっとも他人に知られたら嬉しくない類いのものばかりだろう。最近の千央たちのものから、かなりたくさんあるはずだ。一体、何人分くらいになるのだろうか、千央は思った。

 しばらく後、千央が籐椅子に長くなり、モカ・アイス(本日二個目の氷果)を食べて涼んでいると、面白いものを見つけたと言って、毅が段ボール箱を抱えて持ってきた。中には、週刊誌やマンガ雑誌、料理本、などの古書の類がごちゃごちゃと入っていた。

 その中に危険物取り扱いという本を見つけて千央はびっくりした。爆弾の作り方でも載っているのかと思ったが、それは燃料の取り扱う時に必要か資格の本なのだと、毅は教えた。

 千央は箱のそこをさらっていて、古い雑誌をビニール紐でまとめて結わえてあるのを見つけた。表紙には会報とレタリングしてある。興味をそそられた千央は紐を解いてそれをバラした、一つの大きさは大体文庫本二冊分ほどで、厚さは1cmもなかった。千央はそれをパラパラとめくった。

 まず、もくじには、

・あなたには世界の断末魔が聞こえるか?

・み・き・はコーナー「幽霊は結局のなにがしたいのか」

・音吉先生×やればできるの教え×ストラディバリの場合

などという訳のわからない記事の題目が並んでいて、千央はかなり圧倒されてしまった。その中でも特に目を惹かれたのは、「これで貴方も完ぺき☆パーフェクト・断食☆基本法」という記事だ。なぜ惹かれたかというと、題名で唯一内容が予想できた、というただそれだけの理由であったのだが、しかしよく見ると、この断食方の効果として妄想病・便秘・鼻づまり・耳鳴り・がんが治ったと煽り文句が書いてあり、これを見た千央はさすがに目を疑った。いやおそらく、このガンとかいうのは、千央の知っている悪性腫瘍、癌ではなく、他の病気や症状の別の呼び方が多分ガンなのだと千央はそういう風に無理矢理納得した。たとえばこむら返りとか歯痛とかであるのだ。

 もしくは、“がん”が治った、ではなく“がんが”治った、というのが正しい読みなのかもしれない。おそらく“がんが”は発見されたばかりの新しい病気なのだ。そうだ、そうにちがいない。アフリカあたりで蚊を媒介にして猛威を振るいそうじゃないか。千央はここまで考えて、自分が国のコンゴとマラリアとを混同していたことに気がついた。さらに、この本の発行年は98年の秋であり、とても最近とはいえないのであった。

 ただ確かことが二つある、と千央は思った。この記者が妄想病とやらの罹患者であるということと、断食は妄想病にはまるで効き目がないということだ。

 その他にこの冊子には、コラム(ダツラで脱魂)、歴史小話(川を海と勘違い、邪魔台国は朝鮮にあり)、そして手作りのコーナーなどがある。

 そのコーナーでははじめての黒焼きという題でナスのへたの黒焼きの作り方が紹介されていた。これは歯磨き粉の代用になるそうで、千央はとても実用的であると思い、感心していた。

 その他モノスゴイ、凄まじいものが列挙されている記事中の《あの町この店》という欄に〈増田ヒサノ〉という文字を見つけ、千央は目を見張った。千央は増田ヒサノを知っていた。この人物、他でもない毅の祖母であり、と同時に霊能者のことである。

 千央が素早く、しかし熱心にそれを読んでいると、伊鶴がキッチンに入ってきた。皆はそれに気づいて、歓迎の声をあげた。伊鶴の頭はいつにもましてボウボウとし、寝巻きがわりのシャツにはたくさんの皺がよっていたが、顔色はすっかりよくなり、咳もでていなかった。

 伊鶴は白く乾燥した唇を、ペットボトル入りの飲み物で潤わしていた。これは手作りのスポーツドリンクで、真琴が午前中に台所で作っていたものだ。まず、500mlの水に庭から取ってきたレモンの搾り汁と、白砂糖、塩を加え混ぜる。すると市販のスポーツ飲料にとても似た味の清涼飲料水が出来上がる。伊鶴はそれを部活後の野球少年のようにがぶがぶと飲んでいた。千央はその回復ぶりを見て、とても嬉しく思った。

「皆して、何読んでるの?」

 伊鶴は椅子にどかりと腰掛け、こちらを覗き込んだ。

「マンガ、大昔の」真は言った。

「おお、ブルネリ」真琴は真面目な顔で言った。彼女は歌のしおりを読んでいた。

 千央は今しがた見つけた注目記事を、伊鶴に読んで聞かせた。


“特集《あの町この店》第16回「喫茶店“ひびき”」



 柳町にある閑静な住宅地の一角にある赤れんがの煙突のような建物、それが喫茶店「ひびき」だ。開店以来根強いファンに支えられ、一日客が絶えることはない。

 そんな忙しい店を切り盛りするのは、喫茶店オーナーの増田ヒサノさんだ。増田さんは、32歳の時に二人の子供をつれて離婚、40歳の時に特技の占いと、コーヒーや軽食を提供するこの店を始めた。常連客からはマダム・ヒサと呼ばれ、いつも穏やかな笑みをたたえている。しかしその軟らかな物腰とは裏腹に、その占いはとても辛口だという。

「ええ。娘からはいつもね、お客さんにそんな失礼なこと言ってとても商売にならないんじゃないのって、心配されるんです。でもわざわざ遠くから来て下さる方も多いですから、私も伝え忘れがあっては大変とついつい熱くなってしまって、遠方の方に何度も来てもらうというのは大変ですからね」

 さらにスパイシーなカレーライスと数年前からはじめた、手作りの焼き菓子が人気で、最近急がしさは増すばかりだという。

「カレーパンやお菓子を買いに来てくださる方も多いんですよ」と増田さんは嬉しそうに顔をほころばせる。

 とはいえ一人で店を切り盛りする急がしさに加え、現在70歳と高齢の身、閉店時間は数年前から夜9時から7時に早まった。しかし、増田さんの意欲は尽きない。

「お店は体力が続くかぎり続けていきたいですね。何度も来てくださるお客さんがたくさんありますし、まだまだたくさんの人にお会いしたいですからね」

 今年で開店30周年を迎える「ひびき」、年々マダムと共にパワーアップしているようだ。”



「よく見せて」毅が身を乗り出して言った。「初めて見た、こんなの」

「ねぇこれってもしかしてハルエさんじゃない?」真琴は一緒に紹介されていた写真の一つを指差して誰にともなく聞いた。

 それには店の内装と、若かりし日(といっても当時からおばあさんだが)の霊能者が写っている。店の内部は全体が栗の蜂蜜色をしたとても落ち着いた造りをしていた。バーのような対面式のカウンターの裏でエプロン姿のマダム・ヒサが笑っている。今ほど腰は曲がってはいず、さらに瞼も垂れ下がってはいないのであまり面影がない。しかしこの顔どこかで見たことがある。

「違う。これは大おばあちゃんの若い頃の写真だよ」毅が答えた。

 そうだ。初めてのお尋ねの時に側にいた、おばさんにそっくりなのだった。では文中に出てくる娘というのが、そのハルエさんなのだろう。「言われてみれば確かに今のハルエさんよりも老けてる感じがしてるわ。ならこれ、大分昔の本になるね。それにしても本当に似てる。瓜二つってくらい」真琴は会報を裏返してまじまじと見た。

「そりゃ親子だもの。似てて当たり前だよ」当然だ、という顔で毅は言った。

「昔は喫茶店で占いをやってたんだね」と、真。

「そうだよ、店は年取ったからやめちゃったけどね。で、今は占いだけになった」

「占いで食ってウン十年か。ものすごい来歴だな」公平が言った。

「いや、はじめのうちはお客さんとの話しのネタって感じでおまけで観てあげていたんだってさ。けどカレーパンが美味しいって近所で評判になって、それから少しずつ占い目当てのお客も増えていったらしいよ」

 もしかして昔の霊能者は単なる占い好きのおばさんだったのだろうか?千央はそれを聞いて思った。

 記事は合計三枚の写真と一緒に紹介されていた。さっきの写真の他に、「みすず」の外観が写ったものとカレーライスとカレーパンの写真があった。記事に書いてあるとおり、店はとても変わった建物であった。まるで円柱のサイロみたいな見た目で木の洞のように丸い窓が一つ開いていた。鮮やかな赤いれんがの壁はさぞ目立っただろう。名物だというカレーも中々美味しそうだ。しかし人生ってわからないものだな。今霊能者が占いをやっているのもこのパンで人気がでたからなのだ。畜生カレーパンめ、余計なことを……、千央はそれ(カレーパン)を恨めしく思った。写真の下には小さく注釈がついている。

▲カルダモン・クミン・クローブなどの数種類のオリジナルスパイスを使った『カレーライス』、一皿600円。同じルーを包んだ焼かない『カレーパン』は一つ100円。(中辛と辛口が選べ、パンは持ち帰り可)

 それを読んで千央は考えた。もしかしてこれは揚げないの写植間違えじゃなかろうか、焼かなかったら生のままだし、蒸すのだろうか?それならもはや、カレーパンじゃなくカレーまんになってしまうけど、と。

「買い物ついでに占って貰おうなんて、変わってるよね」真琴が何気なく言った。

「でも、その時は占いが流行ってたんだってよ」

 そう言って毅が箱から取り出したるは、一冊の古本だった。ハードカバーの表装で『占いパワーでマジックハント』という表題が書いてあり、皆はそれを廻し読みした。内容はティーン向けの占い本で、恋愛関係の占いとかおまじないがたくさん載っていた。一ヶ月間かけた願掛けメゾットの最終章には「ライバルから気になる彼をダッシュしちゃうわよ!!」とか「お気に入りの彼のハートをハンティング」などが丸っこい字体で書いてある。

 これら文句が真と伊鶴に大ウケで、二人は腹を抱えて笑い転げた。それを見ているうちに、他の子たちもたまらず吹き出した。著者の名前はR・レティシアという女の人で、顔は普通の日本人に見えた。この著者も数十年の時を経て、この本がこんなに笑いをさらうとは思っていなかっただろうな、と千央は噎せながら考えた。


 全員の笑いの発作が一段落してから、真琴は落ち着いた声を出そうと極力努めつつ聞いた。しかしまだ肩がひくついている。

「でもさ……。流行ってたっていっても、この手相占いとかタロット占いとか……あとは多分風水とかでしょ?ここの占いとは全然種類が違うじゃん」

 毅もそれに応えようと息を詰めて言った。

「ぐふっ!!いやいや、昔はそういうやり方で占いをしてたんだってよ」毅の言葉に千央は少なからず衝撃を受けた。毅は続けた。

「だって食事のためにきてる普通のお客の前でお祓いをはじめたりしたら、どうなると思う?その客二度とこないよ」

 確かにサンドイッチ食べてる隣で、憑いたの離れただのの話をされたら、いくら占いブームとはいえ、もう行きたくなくなるだろうと千央も思う。

「じゃあ、なんで今はこんな風になったの?」

「推測だけど……、雰囲気が出るからじゃないのかな。普通に占うよりは」

「私……、てっきりどこかの寺や神社に縁でもあるのかと思ってた」

何人かが同意するように頷いた。

「さらに言うと」毅はまだ喋る。「その霊を擬人化するようになったのは、本当にここ最近のことだよ。確か季生子が絵を描き出してからだから、ほんの何年か前だね」

 公平がふぅん、と言った。

 千央は思いがけない歴史にしばしの間考えこんだ。では集客のために、より見栄えに重点を置いた占いの仕方に変わっていったのか。それではただ霊媒ショーではないか。そのために毎回毎回罵りを受けるこちら側は堪らない。

 真は混乱し、複雑な表情を浮かべていた。千央は手元にある会報を見た。何気なく手に取ったこの小さな会報は、思っていたよりも重要な役目を果たしたのかも知れない。他の子が霊能者に、より懐疑を抱く切っ掛けとなったのだから。しかし、このことはペラペラ喋ったりしちゃいけなかったかもよ、毅、と千央は思った。

「その占いはよく当たったの?」

「さぁね。そこまで詳しくは知らないな」

 毅はすげない。

 パチパチ、と音がしてそちらの方を向くと、園さんがエプロンを着けながらを木珠のれんをくぐり、キッチンに入ってきていた。園さんは言った。

「台所を占領するなら、じゃが芋と人参の皮むき、誰か手伝ってくれない?」

「起きちゃっていいんですか。まだ寝てた方が」公平は聞いた。

「熱はないし、咳も止まったからもう動いても大丈夫よ」

 今度は真琴が聞いた。「アンコと湖水の具合はどうです?」「杏子ちゃんも湖水ちゃんも熱は下がったわ。湖水ちゃんはまだ少し咳が出るけど、大分楽になったみたいで、二人ともぐっすり寝てるわ。薬が効いたのね。あっ、先生ありがとうございました」

 キッチンのドア枠の向こうを白い物体が横切った。千央はまるでお化けだと思ったが、しかしその影は白衣を着た年寄りのお医者だった。先生は園さんに挨拶して帰っていった。千央はそれを見てふと、懐かしい思いにかられた。あのお医者の容貌が祖父にちょっと似ていたからだ。千央の祖父は白髪で口の周りにぐるっと白髭を生やし、いつもびっくりしたような目をしていた。おじいは、元気にしてるだろうか?夏バテとかしていないだろうか?“どうしたの、ぼうっとして”真琴に言われ千央はハッとした。

「あの、園さん。今日の夕ご飯、まさかカレー……、じゃないですよね」千央は訪ねた。

「ううん、今日は肉じゃがにしようかと思って。病み上がりにカレーはちょっとねぇ……」そう言って園さんは片手で頬にふれ、笑った。「でも食べたいのなら明日作ってあげる。ちょうど今日お隣りの水野さんからゴーヤをおすそ分けで貰ったから、それで……」

「いえあの、ちょっと聞いてみただけです」千央は慌てて立ち上がりエプロンを借りた。

「それと季生子はどこ」園さんは皆に聞いた。

「今、部屋で絵を描いてますよ」真琴は包丁で二階を指して言った。

 千央は台所に立ち、肉じゃがの材料を切った。玉ねぎは上手く切れたが、しかしどうも人参は大きすぎ、じゃが芋は小さすぎる気がした。切っている時、後ろから伊鶴の声が聞こえてきた。

「ね、そういえば慶幾はどこいるの?」

 続いて公平の声。

「家に帰ったよ。お前らが風邪ひいちゃったから、うつらないようにって」

 ああね、と伊鶴は納得したようだった。

「そういえばさ。なんであの時、あんなにずぶ濡れになっちまってたんだ?遊んでたのか?」

「ううん、違うよ。あれから後、偶然居合わせた毅の友達とけんかになってさ。それで外に逃げるしか道がなかったんだよ」

 千央たちが体育館にずぶ濡れで帰ってきた時にもそれを聞かれたのだけど、全員震えてそれどころではなく、あぁぁとかうぅぅぅとしかおそらく喋らなかったと思う。

「まったく、お前はいつもしようがない奴だな。風邪ひいたのも自業自得だ。後で園さんたちに謝っとけよ」

「はじめたのは俺じゃない。毅がその友達だちとモメたんだよ!!」

 それは失礼しました、と公平は謝った。千央はまずい流れになってきたと焦り、思った。ほらほら、毅がつまらなそうな顔をしてる、お願いだから伊鶴は空気を読んで黙ってくれと。しかし次の瞬間、伊鶴は思いがけないことを言ったのでその感情や表情はすぐさま消え去った。

「でも、慶幾がうまいことやったおかげで逃げられたんだよね」

「へぇ、どうやって?」と、真。

「机にあったビーカーを一気にひっくり返して、敵の気をそらせたんだ。ものすごい音がしてさ」

「へぇぇ」千央は驚き半分、といった声を出した。これはすばらしい朗報だった。では、慶幾は完全に毅を裏切っていたわけではなかったのか。

「あれ、千央は見てなかったの?あんなに近くにいたのにさ。大失敗したテーブルクロス引きみたいだったね。この場合はそれでよかったんだけど」

「全然気がつかなかった」

 千央は頭の中でつぶやいた。だって、あの時毅は巨大な男の子に首を掴まれ、持ち上げられようとしてたんだから。とても他のことに注意を払ってなんかいられなかった。それに男の子と毅の体格差と言ったら!!小鹿とバイソン並の違いがあった。

「でも惜しいことしたな。そんな面白そうな場面見逃すなんてさ」千央は毅を見下ろし、我ながら偉そうだとおもいながら言った。「毅も見たかったでしょ」

 なんでこっちを見るんだ。やめろよとばかりに、毅は目茶苦茶嫌そうな表情と目になった。しかし毅はやがて、渋々だけれど、まぁそうだねと頷いたのだった。

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