第6話 時間の合わない痕
土曜の朝、志賀は冊子を持って、また川沿いへ出た。
先週と同じ電車に乗り、二駅先で降り、そこから歩いた。空は今日も薄く曇っている。玄関を出るとき、洗面所の歯ブラシが一本のままなのを確かめた。もう、確かめる前から一本だと知っていた。それでも目で確かめた。確かめないと、靴を履く手が、落ち着かなかった。
鞄の中には、緑の冊子が入っていた。今日は、それを物差しにするつもりだった。
昼休みに冊子を精読して以来、志賀は、一つ決めていた。この冊子は、志賀より先に空白を歩いた人間の記録だ。だとすれば、記録と現地を、突き合わせられる。整合室でいつもやっていることの、逆をやる。台帳を現地に合わせて直すのではなく、現地が、この手書きの記録と、どこまで合っているかを確かめる。合わない点があれば、それは、記録が古いのではなく——志賀は、その先を、まだ言葉にしていなかった。
まず、柳瀬の項から、確かめる点を、三つ、選んでいた。
柳瀬の記述は、他より数行多い。その中に、現地の細部らしきメモがいくつかあった。欄干。六番の区画。それから、外壁の色についての短い語。この三つを、志賀は今日、一つずつ、現地で照らし合わせる。冊子が正しければ、三つとも合うはずだった。
川沿いに出ると、先週と同じ景色があった。低い欄干、剥げた塗装、対岸の集合住宅。喫茶店とクリーニング店、その先のコンビニ。葉の落ちた木。志賀の足は、今日も迷わなかった。角を折れるたびに、次の景色を、膝が先に用意していた。
照合には順番があった。整合室のやり方だ。まず合うはずのものから確かめ、物差しの精度を保証してから、外れる点を探しにいく。外れる点が先に出ると、物差しの方を疑うことになって、何も決まらない。だから合いそうな点から始める。欄干、六番、外壁。冊子の順ではなく、志賀が「合う」と踏んだ順に並べ替えてあった。
欄干から、始める。
一点目は、欄干だった。
冊子には、欄干の高さらしき数字と、その先に、短いメモがあった。字が細かくて全部は読めないが、「空白」という二文字だけは、はっきり読めた。欄干のどこかに、空白がある、という意味らしかった。
志賀は欄干に沿って歩いた。手を置いて、高さを確かめる。冊子の数字と、志賀の腰の位置が、だいたい合っている。この欄干を、冊子の持ち主も、この高さで手に触れた。
欄干の柱には、等間隔で、小さな金属のプレートが取りつけられていた。管理番号か、区間の表示だろう。志賀はそれを、端から順に見ていった。連番になっている。一、二、三、と続いていく。
途中で、番号が飛んでいた。
あるプレートの次が、一つ抜けて、次の番号になっていた。抜けた分の柱には、プレートを留めていたらしい二つのねじ穴だけが残り、プレートそのものはなかった。取り外された跡だった。番号の列に、一つ分の空白。
冊子の「空白」は、これだった。
志賀は冊子を開き、スマホの地図と見比べた。画面の現在地の印が、欄干の項のピンにちょうど重なっている。冊子の座標と、今立っている場所が、合っている。現物を前に置くと、読めなかった細かい字が、意味を結び始めた。欄干の番号がここで飛ぶ、と控えられていた。そして現地でも、番号が飛んでいた。
一致した。
志賀は、少しだけ、息を吐いた。冊子は正しい。記録と現地が、一点目で、合った。この冊子は、実際にこの川沿いを歩いた人間が、実際に見たものを控えていた。証明された、というより、確かめられた、という感触だった。志賀は、次の点へ進んだ。
二点目は、六番の区画だった。
先週、志賀が標識の間隔を測った、あの区画。五の隣が七で、六だけが飛んでいた場所。冊子には、六番の座標と、そこに建物があること、人が住んでいることが、控えられていた。
志賀は、その区画まで歩いた。
五の標識があり、七の標識があり、そのあいだに、六番の区画があった。先週と同じだった。建物が建ち、郵便受けが並び、自転車が停めてある。人の住む区画。番号だけが、五から七へ飛んでいる。
冊子の座標も、建物があるという記述も合う。ただ、冊子には建物の数についての短い数字があった。志賀が区画の建物を数えると、一つ、合わない気がした。だが数え方は角の切り方で変わる。ここまでと決めた線が、冊子の持ち主と志賀とで違うだけかもしれない。言い切れないが、外れてもいない。ほぼ、合っていた。
だが志賀は、一つ引っかかった。建物があり、人が住み、郵便受けに名前が入っているのに、その区画を指す番号だけが台帳にない。整合室で照会をかければ、七番の一部として処理されているはずだった。現地には実体があり、記録には番号がない。冊子だけが、六番と呼んでいた。
冊子は、台帳が拾わないものを、拾っていた。それが、二点目で、志賀に、もう一度分かった。
志賀は、これを「ほぼ一致」として、次へ進んだ。二点目も、大筋で、冊子と現地は合っている。記録は、現地を、正しく写していた。
ここまでは、志賀の中で、まだ、記録の話だった。
冊子という記録が、現地と合う。台帳という記録が、現地と食い違う。合う記録と、合わない記録があって、志賀は、合う方の記録を頼りに歩いている。それだけのことだった。異常は、あくまで、記録の上にあった。柳瀬という名前が台帳から抜けている。番号が飛んでいる。それらは、紙の上の、記録の異常だった。現地そのものは、ずっと、そこにあった。動かずに。
三点目まで、志賀は、そう思っていた。
三点目は、外壁の色だった。
冊子の柳瀬の項に、外壁の色についての、短い語があった。書きかけで途切れる、あの長い記述の、途中のどこか。字が細かくて、志賀は昼休みに、そこを何度か読み返していた。読めたのは、二文字だった。
薄茶。
薄茶の外壁。冊子の持ち主は、柳瀬のどこかの建物の外壁を、薄茶色だと控えていた。座標も、添えてあった。志賀は、その座標の建物を、今日の三点目に選んでいた。
座標の場所まで歩いた。
川沿いから一本入った通りに、その建物はあった。三階建てのアパートだった。古びてはいるが、住人はいるらしく、ベランダに洗濯物が干してある。志賀は、その外壁を見上げた。
白かった。
薄茶ではなかった。壁は、白かった。
志賀は、冊子をもう一度開いた。座標を確かめる。今立っている場所と、冊子の座標が、合っている。この建物で、間違いない。冊子には、薄茶、と書いてある。だが、目の前の壁は、白い。
塗り替えたのだ、と、志賀は最初に思った。
薄茶の壁を、あとから白く塗り替えた。それなら、冊子が古いだけだ。冊子の持ち主が歩いたときは薄茶で、そのあと、大家が白く塗り直した。記録と現地が食い違うのは、時間が経ったから。整合室でなら、これは、更新の話だった。古い記録と、新しい現地。新しい方を採る。それで片がつく。
志賀は、その説明で、いったん納得しかけた。
「ちがう」
右のすぐ脇で、そう聞こえた気がした。短い、一語だけ。振り向くと、誰もいない。右の空気が、ふっと遠ざかる。気のせいだ、と思った。空耳にしては、短く、はっきりしすぎていた。
だが、壁を見上げているうちに、指先が止まった。
壁の白が、古かった。
塗り替えた壁では、なさそうだった。塗り替えたなら、塗料が新しいはずだ。艶があり、まだ均一で、経年の汚れが浅い。だが、目の前の白壁は、そうではなかった。雨だれの筋が、上から下へ、何本も走っている。ひび割れもあった。細いひびが、壁のあちこちに走り、そこから、下地が覗いている。
志賀は、しゃがんで、壁の下の方を見た。
塗装が、めくれている箇所があった。めくれた縁から、下の層が見えている。一枚ではなかった。白い塗装の下に、また白い層。その下に、また。何度も塗り重ねられた層が、めくれた縁に、地層のように並んでいた。一番下まで、白かった。薄茶の層は、どこにもなかった。
志賀は、その層を、指で数えた。
整合室で塗装の劣化を読むとき、塗り重ねの層は、おおよその年数の目安になる。一層で、数年から十年。目の前の壁は、少なくとも、三層あった。一番下まで、白。
これは、数年前に塗ったばかりの壁ではなかった。
何十年ものあいだ、白であり続けた壁だった。雨だれの筋も、ひびも、下地の覗き方も、長い時間が乗った壁のものだった。薄茶だったことなど、一度も、ない。
冊子には、薄茶、と書いてあった。
志賀は、しゃがんだまま、動けなくなった。
喉が、乾いていた。
冊子の持ち主は、この壁を薄茶と控えた。書き間違いでも、見間違いでもない。この人は、欄干の空白も番号の飛びも、正確に控えていた。その人が、外壁の色だけを間違えるだろうか。
間違えたのではない。
この人が見たとき、壁は、薄茶だった。
そして今、壁は、白い。それも、何十年も白かった壁として、白い。
二つを、同時に、成り立たせる説明が、志賀には、なかった。
塗り替えたなら、塗装は新しいはずだ。だが塗装は、何十年分も古い。塗り替えていないなら、壁は初めから白かったはずだ。だが冊子には、薄茶とある。壁は薄茶から白へ変わり、その変化にかかったはずの時間だけが、どこにもなかった。過去の塗装の層まで、白の歴史に書き直されている。
志賀は、立ち上がった。膝が、重かった。
柳瀬という名前が台帳から抜け、番号が飛び、地図アプリが打ち込んだ名前を補正する。どれも紙の上の、記録の話だった。現地はずっとそこにあって、それを指す名前や番号だけが、記録の側で抜けたり寄せられたりしていた。志賀は、その食い違いを記録の異常として見ていられた。
だが、今、目の前の壁は、記録ではなかった。
壁だった。塗装があり、ひびがあり、層がある。手で触れる物だった。その物が薄茶から白へ、変わった時間だけをきれいに抜き取って、変わっていた。
記録が食い違っているのではない。現地の、物の側が、変わっていた。
志賀は、その場をしばらく動かなかった。
志賀は、もう一度、塗装のめくれた縁を見た。冊子は、薄茶だったと言う。壁の層は、何十年も白かったと言う。どちらも疑えなかった。冊子は、他のことでは正しく、壁の層は目の前にある。二つの正しさが、同じ壁の上で、両立しない形で重なっていた。
志賀は、川沿いへ戻った。
欄干のところまで来て、足を止めた。壁のことを、頭の中でまだ転がしていた。変わった痕跡の、時間が合わない。整合室でなら記録の日付を比べて決めるが、壁には日付がない。変わったばかりのはずの壁が、何十年も前から白かった顔をしている。時間が、合わない。
欄干に手を置いて、志賀は、橋の方へ目をやった。
川には、小さな橋が架かっていた。先週も、渡らなかったが、見てはいた。橋のたもとに、案内板が立っていたはずだった。市の様式の、青地に白の板。この川の名前と、周辺の案内が書かれた板。先週、志賀は、その板を、確かに見た。
案内板が、なかった。
橋のたもとに、板がなかった。
志賀は、たもとまで歩いた。板の立っていたはずの場所に、支柱だけが、残っていた。板を留めていた金属の枠。その枠に、板をとめる四つのボルト穴が、空いていた。板は、なかった。枠と、ボルト穴だけが、残っていた。
撤去したのか、と思った。
だが、撤去したなら、撤去した跡があるはずだった。板を外した枠には、新しく削れた金属の光沢や、外したばかりの工具の跡が残る。志賀は、枠を見た。そういう跡は、なかった。
志賀は、しゃがんで、四つのボルト穴を、順に覗いた。
穴の縁に、錆が、浮いていた。
赤い錆が、四つの穴の、それぞれの縁から、外側へ広がっていた。志賀は、整合室で、屋外構造物の錆を読む機会がある。錆の広がり方は、経過した時間の、おおよその目安になる。
この錆は、ひと月やふた月のものではなかった。
縁からじわりと広がった、赤い錆。艶を失い、粉を吹いている。ボルトが抜かれてから、少なくとも、半年。雨と乾きを、何度も繰り返した錆だった。昨日今日の撤去では、こんな錆は出ない。
だが、志賀は、先週、この案内板を、見た。
七日前だ。先週の土曜、志賀はこのたもとを通り、青地に白の板を確かに見た。板が抜かれてから半年、志賀がそれを見てから七日。二つの時間が、同じボルト穴の上で噛み合わなかった。
撤去の跡はない。抜かれたのではなく、板だけがなくなり、その穴に半年分の錆が初めから乗っていた。壁と同じだった。変わったのに、変わるのにかかったはずの時間が、合わない。板のあった場所には支柱と枠と四つの穴だけが残り、半年前からずっとこうだった、という顔をしている。
志賀は、自分が写真を撮っていないことを、思い出した。
先週、案内板を見たとき、写真は撮らなかった。だから今、板があったことを証明できるのは、志賀の記憶しかない。ボルト穴の錆は半年前を指し、証拠の側は半年前で揃っている。志賀の記憶だけが七日前を指して、一人だけ、時間が合わない。
志賀は、立ち上がろうとして、膝に手をついた。
志賀は、川沿いのベンチまで歩いて、腰を下ろした。
座るとき、右側を空けていた。避けるものは、何もない。それでも、体が、半身分、左へ寄っていた。今日は、その癖を、いつもより長く、意識した。右の座面に、日は当たっていなかった。ただ、空いていた。
志賀は、空いた右へ、いるのか、と言った。声にはしなかった。問いの半拍あと、右肩のあたりの空気が、ふっと近くなった。返事のような、頷きのような。だがやはり、音はない。
同じ半拍が、また返ってきた。深夜の、文字起こしの端。整合室の、冷めたコーヒー。土曜の、このベンチの右隣。そして今、また、この右隣。同じ温度で、同じ半拍で、何かが返してくる。壁の前で聞いた一語だけが、その並びから外れていた。あれだけは、言葉だった。また、あれだ、と志賀は思った。もう、疲れた目のせいには、できなかった。
膝の上で、冊子を開いた。薄茶、と書かれた行を、見た。それから、閉じた。
志賀は、確かめきれない、と思った。
壁の層も、ボルト穴の錆も、志賀は自分の目で見た。だが、志賀の目だけだった。冊子は薄茶を覚えているが、持ち主はいない。志賀は冊子と二人きりで、その冊子は、書きかけの一行で途切れたまま喋らない。壁の白さと錆の半年を「これはおかしい」と言おうとしても、言う相手がいなかった。
言う相手が、いなかった。
その言い方が、先週の行方不明者届と、同じ形で胸に落ちた。届け出る相手が世界の側にいない。今度は、確かめ合う相手がいない。一人で見たものは、志賀の記憶の中にしかなく、記憶は、補正される側だった。
志賀は、一人では、照合しきれない、と悟った。
冊子は物差しになる。だが物差しだけでは足りない。その食い違いを志賀一人が見たのでは、見間違いと区別がつかない。同じものを別の人間が別の場所から見ている、そういう外の目が要った。
志賀の頭に、二枚の通報票が、浮かんだ。
丸い字と、角ばった字。別々の人間が、別々の窓口から、柳瀬という同じ名前で、同じ苦情を出していた。台帳にない町名で。あのうちの一枚、角ばった字の方に、名前があった。乾恒一。整合室に、執拗に通報を送り続けてくる、あの差出人。処理に困る、終わらないノイズ源。柳瀬を、疑わずに、柳瀬と呼んでいた人間。
志賀は、その名前を、しばらく、頭の中に置いた。
その夜、志賀は、部屋の机の引き出しを、開けた。
平日に持ち帰った整合室の書類を、いくつか入れてある引き出しだった。その奥に、乾の通報票の写しが、一枚、あった。柳瀬の件を扱ったとき、要観察案件の携行分として写しを取っていた。持出し簿に、志賀の判がある。処理して閉じるつもりが、閉じられなくて、卓の隅に伏せておいた、あの票。それが、写しの形で、引き出しの奥に、残っていた。
志賀は、それを、引き出しから出した。
角ばった字が、枠からはみ出していた。自由記述の欄に収まりきらず、欄外の余白まで、字が続いている。几帳面で、しつこい字だった。日時と、場所と、確認した経緯まで、書き添えてある。
志賀は、テーブルの上に、その通報票を置いた。
それから、鞄から、緑の冊子を出した。同じテーブルの上に、冊子を置いた。
通報票と、冊子が、並んだ。
角ばった字の通報票。日付のない、座標の冊子。片方は、市の窓口に届いた、正式な記録だった。もう片方は、鞄の底から出てきた、持ち主のわからない冊子だった。二つは、別々のところから来た。だが、二つとも、柳瀬という、台帳にない名前を、疑わずに使っていた。二つとも、記録の側から見れば、間違いとして扱われる。二つとも、志賀と同じものを、見ていた。
志賀は、テーブルの前に座って、二つを、しばらく、見ていた。
整合室の側から見れば、この二つは、どちらも処理すべき対象だった。冊子は、持ち主のわからない拾得物。通報票は、区分に収まらない、要観察の一件。志賀の仕事は、こういうものを、正しい宛先へ振り直して、閉じることだった。だが今、志賀は、閉じる側で、二つを並べているのではなかった。二つを、味方として、並べていた。台帳から間違いとされる二つだけが、志賀の見たものと、同じ側に、立っていた。
冊子の持ち主は、いない。書きかけの一行で、途切れて、どこかへ行った。だが、乾恒一は、いる。今も、整合室に、通報を送り続けている。柳瀬を、柳瀬と呼びながら。志賀が今日、壁の白さと、錆の半年を見て、確かめ合う相手を探したとき、残っていたのは、この、角ばった字の差出人だった。
志賀は、通報票の差出人の欄を見た。乾恒一。何度も卓の上で見てきた名前だ。処理に困る、終わらないノイズ源として。だが今日から、この名前の意味が変わっていた。この人は、志賀が今日見たものを、たぶん先に見ている。間違いとして扱われることを承知で、それでも通報を送り続けていた。志賀と、同じものを見ながら。
志賀は、通報票の、受付番号を、指でなぞった。
これまでは、記録が、動いていた。
今日は、現地の、現実が、動いた。




