第1章 怨念
これは、中学受験スーパーエリート塾のS塾に通う生徒たちが、とある教師を殺す計画を立てるところから始まるサスペンス劇。背後には、強大な犯罪組織の影が…。
「ちょっと、松村君」
得意な社会の授業中、隣の席の友達としゃべっていたら、教員の飛鳥井に怒られた。
「いま私が言ったことをもう一度言ってみな」
黒板に書いてあったことから推理して、何を言うべきか考える。
「四万十川が最後の清流といわれるのは、上流に大きなダムがないからだということを言っていました。」
飛鳥井の感情を大きく揺さぶらないよう、なるべく冷静に答える。しかし、それがあだとなったようだ。
「何なのその乙に済ました態度は。反省の意が伝わってこない。廊下に出ていて」
廊下に出される。扉の小窓から教室内をのぞくと、千夏がこちらを見ている。前を向けと目で伝えると、素直に従ってくれた。
一度、状況説明と行こう。まず、僕と千夏は小学六年生で、中学受験の塾に通っている。ちなみに、一応最高クラスに属している。塾のエースということで、先生たちは僕たち最高クラスの生徒の教育に熱を上げている。
しかし、飛鳥井の僕への扱いは徹底的に違う。それは、明らかにいじめというものだ。それに生徒や、他の教員が従っているわけでもない。飛鳥井が勝手にやっているだけだ。それにしても、飛鳥井のいじめが僕の胸に深く突き刺さっているはそのいじめがあまりにもひどいからだ。それは、社会があまりにも出来すぎる僕に対する嫉妬という物だろう。だから、さっきのような中学受験に絶対出ないような小ネタを自慢げに言っては僕に言いがかりをつけ、質問を投げかけてくる。本当に、こいつのことは嫌いだ。
そういえば、千夏の説明を忘れていた。千夏とは、同じマンションに住んでいる。母親たちは昔から仲が良く、もちろん俺たちも仲がいい。いわゆる、幼馴染というやつだ。千夏はすごく優しくて、飛鳥井にいじめられたときなんかには、いつも優しい目線を投げかけてくれる。周りの生徒たちはみんな冷たいというのに。
しばらく教室の外で待っていると、教室から飛鳥井が出てきた。
「今日ちょっと、松村君残ってくれる」
「なぜですか」
「後で話す」
結局、飛鳥井の言う通りになってしまった。教室から出てきたクラスメイト達が、興味深そうにこちらを見ながら帰っていったのを思い出しつつ、職員室の飛鳥井のデスクで飛鳥井を待つ。
飛鳥井がやってきた。
「最近の君の態度はひどすぎる」
開口一番にそんなことを言ってきた。
「具体的にどんな態度がひどいのですか」
「ほら、そういうの、君は変に冷静すぎて、反省の意が感じられないんだよね」
「でも、この話し方は僕の癖なのです。さすがにそれを責めるのはひどすぎませんか」
「癖なら直せばいい」
「無理です。それに…それに、なんでいつも僕に当たり散らしてくるのですか」
「君に当たり散らしているわけじゃない。君の態度がひどすぎるから、直してあげようとしているだけじゃない」
「でも、先生の怒り方は普通じゃない」
「どう普通じゃないの」
「だって、明らかにいじめじゃないですか」
「なんでそう言えるの」
「じゃあ、どうしてほかの生徒を怒らないのですか」
「説明になってない」
「でも、明らかに理不尽です」
「ふん、何なの。まあいいや、もう帰って。何を言っても直らないわ」
「直らないって、何なの。もう、こんな塾、辞めてやる」
「勝手にすれば」
鼻で笑うような飛鳥井を尻目に、いつしか目にきらめいていた悔し涙を流し、僕は職員室を去る。
校舎の外。3月の風が肌に冷たい。その中、電柱にもたれかかる人影が一つ。
「千夏」
「ごめん、友達と一緒に帰ろうとしたのだけど、体が勝手に待っちゃった」
「ごめんなんて言う必要ないよ」
「でも、私が松村を待っているとわかったら、変な噂たつことになっちゃう」
そういうことだったか。そこまで気を配っているのか。
そんな風に千夏をみながら、僕は決心を固める。
「千夏、話したいことがあって」
「何」
千夏の顔がこわばる。
「俺、この町を出ていくことにする」
「え?」
「はは、驚きすぎだって。親が、財産があることをどうしても周りに自慢したいから、急にこの人形町から、最近土地代が高くなっている豊洲に引越ししたい、って急に言い出したってこと」
千夏の顔が緩む。
「なんだ、そういうことだったのか。ならストレートに引っ越しすることになったと言ってくれればいいのに。そんな真剣な顔するからびっくりしちゃったし。まあ、いいけどさ。」
機嫌がいい時の千夏は饒舌になる、という特徴を知っている俺は、やっと安心することができた。そもそも、なぜ千夏に引っ越しのことを伝えるのが嫌だったかというと、…。
「というかそもそも、自己満足のために勝手に引っ越しを決める松村の親、無茶苦茶ひどくない?だってさ、私たちの通っているS塾って、この人形町にある東京校が1番レベル高いんでしょ?なんで引っ越しでこの校舎に通いにくくさせるわけ?というより…」
ああ、また始まってしまった。千夏の僕の親への悪口はひどく長く続く。俺のことを心配してくれてのことなのだろうが、もう一つ、僕は今親の悪口を聞きたくない理由があった。
「ねえ、ちょっといい?」
千夏の声と、顔を覗き込む動作で現実に引き戻される。
「あ、ごめん。なに?」
「この校舎には結局これからも通えるの?」
「そうじゃないかな…」
そういいながら、僕はこの校舎に戻ってくるという確信がなかった。なぜなら、僕は親の看病で忙しいからだ。
この状況を詳しく説明しよう。まず、今病気にかかっているのは母親で、かかっている病気は喘息だ。ずっと苦しそうに咳をし、毛布をかぶって布団で眠る母親の姿がとてもいたたまれなく、僕は千夏に親の悪口を言われることさえ拒んでいるうえに、看病で忙しく、今僕が通っている東京校に戻れないという確信がある、ということだ。で、その原因は、…。
「ねえ、本当に大丈夫?松村」
またもや、千夏の声と顔を覗き込む動作で現実に引き戻される。
「あ、大丈夫だけど…、じゃあ、また木曜日」
僕は、千夏に母親が病気で寝込んでいる、という現実を知ってほしくない。千夏の前では、自分を輝かしく見せたい。どんなにつらい時でも。千夏の前では。
だから今、千夏の前から、何かに追われるように走り去ってしまった。たとえそれが千夏の望むものではないとわかっていても。
街灯に集まる蛾の群れが、少し揺らいで見えた。
歩きながら、僕は母親のぜんそくが急に悪化した時のことを考えていた。あれは、小学五年生の3学期のことだった。つまりかなり最近だ。その時も今日のように理不尽な理由で飛鳥井が僕のことを怒ってきて、そのあと例によって例のごとく飛鳥井と僕で小競り合いが起きた。問題はそのあとだった。飛鳥井が俺の親に電話を掛けたのだ。内容はもちろん、飛鳥井の妄想している「ひどいこと」。で、僕の母はお人よしだから、飛鳥井のいうことをうのみにしてしまった。
僕は帰った途端、母親にリビングで正座させられた。母親は突然、怖い顔をして、こう怒鳴った。
「飛鳥井先生から全部聞いてるよ」
その時僕はいらだっていたから、すぐに言い返した。
「違うよ。それは飛鳥井が理不尽に怒ってきただけだし、それを母さんにわざわざ電話するあいつが悪いんだ」
そのあとだった。母は何か言いかけたが、激しく咳をし始めたのだ。そして病状はさらに悪化し、今の状態、というわけだ。
この件で、僕は飛鳥井をひどく憎んでいる。それはなぜかというと、飛鳥井は僕の母が喘息を持っていて、母親を巻き込めば激高し喘息が悪化する、ということを予測できたからだ。といっても、客観的に見ればとても理不尽だと思う。だから、これには日ごろの飛鳥井へのいら立ちも含まれている。
家に着いた。玄関の扉を開け、中に入る。中はとても暗く、照明は一つもついておらず、真っ暗だ。その暗さは、僕の、母親を寝たきりにし、千夏と同じ塾に通えなくさせた飛鳥井に対する怨念のようにも感じられた。
と、ここで、どこかからか視線を感じた。まあいい、無視しよう。
そういえば、なぜ急に引っ越しすることになったのか、本当のことを話していなかった。なぜかといえば、豊洲がこの人形町より、きれいな街だからだ。
「空気がきれいそうだし、豊洲に引っ越したら」
と引っ越しは父が提案した。そんな父のことが、僕は嫌いではない。
それに、今家に父がいないのは、パートに出ていた母が働けなくなった分、父がたくさん残業しているからだ。
そう思うと、家のこの暗さまでも、少し明るく見えた。
でも、僕は知らなかった。新しい校舎で、どんな犯罪を引き起こすことになるのか、ということを。




