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第99話 眠りの返礼

 宿の部屋を出ると、廊下の空気が少しだけ軽く感じた。

 さっきまで、あの若い男の息が浅い音で部屋を満たしていたのに、今は窓の隙間から入る風の音が勝っている。――眠りが、戻ってきた音。


 案内してきた男は、扉の前で立ち尽くしていた。拳が震えて、唇がうまく閉じられない。

「……寝た?」

 信じられないみたいな声。


「寝ました」

 私は息を吐いて答える。

「すぐ起きるかもしれない。けど、戻れた。――それが大事」


 男はその場にしゃがみ込み、顔を覆った。

「……助かった」

 その言葉が、私の胸をじんと温める。責められるより、ずっと重い“返礼”。


 隣でカイゼルが低く言った。

「礼は、彼女に言え」

 短い。けれど柔らかい。

 私は頬が熱くなるのを誤魔化すように、喉に手を当てて息を吐いた。


 宿の外へ出ると、夕暮れの空が紫に寄っていた。

 道の端で、さっきの男が急に立ち上がり、私に向かって深く頭を下げる。


「……裏切り者って言って悪かった。俺、怖くて……怒って……」

「怖いときほど、言葉が尖る」

 私はゆっくり言った。

「言えたなら、もう戻ってる」


 男が何度も頷く。

 そして、ポケットから小さな布を取り出した。白い布に、雑だけど結び目がある。


「……これ、さっきの合図みたいに作った。揺らしたら、ここ、って」

 私は思わず笑ってしまった。

「うん。いいね」


 その瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 ――名札の呪いは、まだ続く。

 この男が砦の外で誰かに笑われるかもしれない。合図を馬鹿にされるかもしれない。


 私は息を吐いて、白いリボンを自分の指で軽く揺らした。ひらり。

「笑われても、待てる。待てたら戻れる」

 男が真似して布を揺らし、頷いた。


 帰り道、カイゼルはずっと私の隣にいた。

 歩幅を合わせるだけじゃない。時々、私の視界に入る位置で止まり、目で「ここだ」と返事をする。

 言葉がなくても、迎えがある。


「……陛下」

 私は小さく呼ぶ。

「ここだ」

 返事がすぐ落ちる。

 胸が熱くなる。


「さっきの人、ありがとうって言った」

「当然だ」

 カイゼルは平然と言う。

「お前が戻した。私は隣にいただけ」


 ずるい。

 私は笑いそうになって、息を吐く。

「隣が一番、強いんです」

「知っている」

 カイゼルが声を落とす。

「だから、離れない」


 砦が見えてきたころ、門の灯りが揺れていた。

 ローガンとフィンが待っている。マルタが腕を組んで、こちらを睨んでいる。


「先生、戻った」

 フィンが言う。

「戻った」

 私も返す。

 返事が返事として戻る。


 マルタが私の顔を覗き込み、鼻で笑った。

「……少し元気になってる」

「眠りの返礼です」

 私は小さく言った。

「眠れた人を見ると、こっちも戻れる」


 その夜、医務室へ戻る廊下で、カイゼルが私の手を取った。指が絡む。ほどけない返事。


「今夜も、眠るまで離さない」

 当然みたいに言うのが、いちばん甘い。

 私は頬が熱くなって、でも逃げなかった。


「……はい。返礼、受け取ります」

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