第98話 迎えに行くのは、当然
宿は砦から少し離れた場所にあった。
夕暮れの風が強く、看板がきしむ音がする。――落ち着かない音。でも私は、首もとの印に触れて息を吐いた。戻れる。隣にいる。
カイゼルは私の半歩前を歩き、時々振り返って目で「ここ」を作る。言葉じゃない返事。待ってくれる間。
私はその歩幅に合わせて、焦りを置いていく。
宿の扉を開けると、酒の匂いと、濁った空気。
客の視線が一瞬こちらに集まり、すぐ逸れる。
“皇帝”を見た目だ。怖いのは私じゃなく、彼のほう。
「奥だ」
案内してきた男が小さく言う。
廊下の奥の部屋。扉の前で、男の手が震えた。
「……入っていいのか」
「いい」
私は息を吐いて言った。
「戻っていい場所を、ここにも作るから」
扉を開けると、薄暗い部屋に若い男が寝かされていた。
顔色は悪くない。でも目が開きっぱなしで、焦点が定まらない。肩が固く、呼吸が浅い。眠れていない人の匂い。
「……また来たのか」
若い男が掠れた声で言う。
「祈れ、祈れって……頭の中で鈴が鳴る」
胸がきゅっとなる。
私は窓へ近づき、鍵を外して少しだけ開けた。冷たい外気が入る。空気が軽くなる。
「吐こう」
私は椅子を引いて、若い男の視界に入る位置に座る。近すぎない距離。
「長く。吸うのはあと」
若い男は最初、うまく吐けずに喉を鳴らした。
苛立ちで息が止まる。焦りで体が固まる。
そのとき、隣で低い声が落ちた。
「急ぐな」
カイゼルだ。
言葉は短いのに、部屋の空気が落ち着く。怖さを増やさない間がある。
若い男が目を動かし、カイゼルを見た。
「……皇帝?」
声が震える。
「見るだけだ」
カイゼルが言う。
「脅さない。奪わない。……戻す」
その言葉に、若い男の肩が少しだけ落ちた。
私は白いリボンを取り出し、ゆっくり揺らす。ひらり、ひらり。
「ここ。見える? これが“戻る”の合図」
若い男が、微かにうなずく。
それだけで、呼吸がほんの少し深くなった。
「……裏切り者って聞いた」
若い男がかすれた声で言う。
案内してきた男が、苦しそうに顔を歪める。
私は息を吐いて、首もとの印に触れた。
「裏切り者なら、ここに来られない。戻す人は、ここに来る。……迎えに行くから」
隣でカイゼルが即答した。
「迎えに行くのは当然だ」
そして、私の指を絡める。返事。ここだ。
若い男が目を閉じ、ぽつりと言った。
「……誰かが迎えに来るって、思えるだけで……」
言葉が途切れて、息を吐く。
今度は、少し長く。
私は頷いて、静かに言った。
「そう。迎えは、合図。ひとりにしないって返事」
若い男のまぶたが、ゆっくり落ちる。
案内してきた男が、声を震わせた。
「……助かるのか」
「助かる」
私は息を吐いて答えた。
「眠れたら、戻れるから」
カイゼルが、私の肩に外套をかけ直す。
そして、耳元に低く落とした。
「お前が迎えに行くなら、私も迎えに行く。……お前を、迎えに」
胸が熱くなる。
私は喉に手を当てて笑いそうになり、代わりに息を吐いた。
帰り道は、どこにでも作れる。
迎えに行くのは、当然だから。




