第97話 裏切り者の、隣
「裏切り者」――あの札は、医務室の火皿で灰になった。
灰にしても、言葉は残る。だから私は、掲示板に「戻っていい場所」を貼り続けた。返事の名札を増やすために。
夕方、砦の外から声がした。
「医者がいるって聞いた。……その女が、裏切り者だって噂も聞いた」
門の前に立っていたのは、旅装の男だった。顔は疲れていて、目の下に影がある。手に握っているのは、しわだらけの紙――噂の札と同じ文字。
ローガンが前に出る。
「入れねぇ」
でも追い払う声じゃない。線を引く声だ。
「用があるなら言え。ここは、呼吸を奪う場所じゃねぇ」
男は苛立ったように言う。
「呼吸? 馬鹿にするな。俺の仲間が眠れなくなった。神殿で“祈り”をしてからだ。……責任を取れ」
胸がきゅっとなった。
責任。名札。押しつけられる言葉。
私は首もとの印に触れ、息を吐いてから門へ出た。
「私が医師です」
掠れ声でも、はっきり言う。
「仲間の人、ここに連れてきて。責任は“押しつけ”じゃなくて、向き合うことだと思う」
男が私を見る。
目が少し揺れた。怒りの奥に、怖さが見えた。
「……本当に助けるのか」
「助ける」
私はうなずく。
「裏切り者って名札より、今の呼吸を見ます」
そのとき、隣に影が落ちた。
カイゼルが私の隣に立った。近い。はっきり“隣”だ。
「彼女は助ける」
低い声。短い。
「そして、彼女を傷つける言葉は私が折る」
男が目を見開く。
「皇帝……? なぜ、そこまで」
カイゼルは迷わず言った。
「私が彼女を求めているからだ」
空気が止まった。
ローガンが大きく咳払いし、フィンが耳まで赤くなって壁を見る。
マルタは腕を組み、呆れた顔で呟く。
「……ほんとに言うんだ、それ」
私は頬が熱くなって、でも目を逸らさなかった。
言葉で守られるのが怖くなくなってきたのは、選べるからだ。
「仲間の人、どこにいますか」
私は男へ尋ねた。
男はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「……近くの宿にいる。動けない」
「迎えに行きましょう」
私が言うより先に、カイゼルが言った。
「私が行く」
即答。
そして私の指を絡める。返事。ここだ。
「二人で行きます」
私が言うと、カイゼルの目がわずかに緩む。
「当然だ」
門を出る前、男が小さく言った。
「……裏切り者って、聞いてたのに」
私は息を吐いて、白いリボンを揺らした。ひらり、ひらり。
「裏切り者の隣には、立てません」
掠れ声でも、はっきり。
「私は、戻す人です。――隣にいる返事で、それを思い出せる」
カイゼルが低く返す。
「ここだ」
私はうなずく。
「ここにいます」
噂の札は、まだどこかで増えるかもしれない。
でも“隣”が増えれば、名札は剥がせる。
裏切り者の隣ではなく、戻る人の隣として。




