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第94話 少しだけ、守れない

 灰になった封の匂いが、まだ医務室に薄く残っていた。

 私は窓を少し開け、息を吐く。火の匂いは嫌いじゃない。怖さの形が消えた証拠だから。


 その日の午後、診察室の外がざわついた。

 ローガンの低い声が廊下を切る。


「先生、来た。……門の外だ」


 “来た”の言い方が、嫌な予感を連れてくる。

 私は首もとの印に触れ、息を吐いた。走らない。焦らない。戻る。


 扉を開けると、門の前にひとりの使者が立っていた。紋章付きの外套。――私のいた国の紋。

 砦の騎士たちは距離を保って囲んでいる。追わない囲い方。灯りは昼でもある。


 使者は紙筒を掲げた。

「リュシア殿。正式な召喚です。拒めば、貴殿の名誉は――」


「名誉?」

 私の喉がきゅっとなる。言葉が刺さる。

 その瞬間。


 外套が、背中から被さった。

 カイゼルが私の前に立った。近すぎるくらいに。――“みんなの前では少しだけ”の約束が、静かに破られる。


「彼女を脅すな」

 低い声。短い。

 でも今日は、いつもより硬い。怒りじゃない。線を引く刃だ。


 使者が顔をしかめる。

「隣国の陛下が、私的な――」

「私的ではない」

 カイゼルは即答した。

「彼女は私の医師であり、私の護る者だ」


 胸が熱くなる。

 同時に、頬が熱くなる。みんな見てる。

 私は小さく咳払いして、掠れ声で言った。


「陛下……少しだけ、って」

 言い終わる前に、カイゼルの指が私の指を絡めた。返事。ここだ。


「揺れた」

 それだけ。

 私が揺れたから、少しは守れない。約束通りの、ずるい守り方。


 使者が紙筒を差し出す。

「返答を」

 私は息を吐いて、視線を落とした。選ぶ。私が選ぶ。


「今は受け取りません」

 言い切ると、使者の眉が跳ねる。

「拒否するのか」

「拒否じゃない」

 私はゆっくり言葉を選ぶ。

「“今”じゃない。私はここで、仕事があります。眠れない人を戻す仕事が」


 使者が唇を歪める。

「ただの騎士団に、そこまで――」

「ただの、ではない」

 カイゼルが被せる。声が低いまま、動かない。

「彼女の場所を侮辱するな」


 私の胸の奥が、じんとする。

 ここは私の居場所だと言ってくれる。皇帝が、まっすぐに。


 使者は焦れたように言った。

「では、貴殿の意思は国へ伝える。だが――後悔するな」

 踵を返し、門の外へ去っていく。


 風が通る。

 私は息を吐いて、やっと肩が落ちた。


「……陛下、みんなの前で」

 私が小さく言うと、カイゼルは私を見下ろし、逃げない目で言った。

「お前が揺れたら、隠せない」


「……溺愛、見えすぎです」

「見せているわけではない」

 即答。

「溢れている」


 ローガンが盛大に咳払いし、フィンが耳まで赤くして視線を逸らす。マルタは呆れた顔で天井を見る。

 私はもう、負けて笑ってしまった。


 怖さはまだある。

 でも、少しだけの約束より先に、返事が来る。

 その返事が、私をここに戻してくれる。

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