第93話 少しだけ、の約束
朝の医務室は忙しかった。けれど、空気は前より柔らかい。並ぶ騎士たちは肩の力を抜いていて、順番を待つ間にちゃんと息を吐けるようになっている。
私は机の上で白いリボンを揺らし、合図を整えた。
「ここ」
誰かがうなずく。返事が返事として戻ってくる。それだけで、胸の奥が落ち着く。
扉の向こうから、フィンの声。
「先生、次の人、ちょっと……きつそう」
入ってきた騎士は、顔色が悪いわけじゃない。でも目が泳いで、手が落ち着かない。呼吸が浅い。
「座って。吐こう。長く」
私は椅子を示し、窓を少し開けた。風が通る。
騎士は最初、うまく吐けずに喉を鳴らした。恥ずかしさで、余計に息が止まる。
「恥ずかしくない」
私は静かに言う。
「戻るための練習だよ」
騎士の肩が少し落ちた。その瞬間、廊下のほうから低い声が聞こえる。
「急ぐな」
カイゼルだ。診察室の外側。近すぎないのに、いなくならない距離。
騎士が視線を上げ、ほんの少しだけ安心した顔になる。
“皇帝がいるから”じゃない。皇帝が“待っている”からだ。怖さを増やさない間が、ここにある。
「……先生」
騎士が掠れた声で言う。
「夜、目が覚めると……置いていかれた気がする」
私は首もとの印に指を当て、息を吐いた。
「置いていかれない合図、作ろう。声じゃなくてもいい。見えるもの、触れるもの、待ってくれる間」
騎士はしばらく迷ってから、白いリボンを受け取り、指に結んだ。
「……これで、戻れる?」
「戻れる」
私はうなずいた。
「戻りたくなったら、揺らして。うなずけたら、もう戻ってる」
診察がひと段落したころ、廊下でローガンがわざとらしく咳払いをした。
「陛下、先生の外套、今日もやるのか」
マルタが腕を組む。
「やるでしょ。あの人、もう止まれない」
「止まらない」
カイゼルが平然と言い、私の肩へ外套をかけ直す。
私は頬が熱くなって、小さく咳払いした。
「……みんなの前では、少しだけ」
昨夜の約束を、改めて口にする。
カイゼルは私の目をまっすぐ見た。逃げない目。
「分かった」
即答。
そして、声を落として付け足す。
「だが、お前が揺れたら、その“少し”は守れない」
ずるい。
私は言い返せず、代わりに息を吐いて、指先を絡め返した。返事。ここだ。
そのとき、見張りが慌てずに入ってきた。走らない足音。待てる足音。
「医務室に、手紙です。……差出人なし」
私は一瞬だけ胸が冷えた。けれど、すぐ喉に手を当てて吐く。
カイゼルの指が絡む。返事が先に来る。
「読むか」
カイゼルが低く聞いた。選ばせる声。
私は封を見つめ、ゆっくり首を振った。
「今は読まない。……今の私は、戻れてるから」
カイゼルは短く頷き、封を受け取って火皿へ移した。炎が紙を舐め、怖さの形が灰になる。
そして私の手を取って、指をほどけない形に絡めた。
「よく選んだ」
その声が、甘くて、あたたかくて、胸の奥まで届く。
私は小さく笑い、首もとの印に触れた。
溺愛は派手じゃない。
私が選べるように、私が戻れるように――静かに、確実に、迎えに来る。




