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第88話 溺愛は、静かに囲う

 朝、医務室の灯りがまだ薄いころ。

 目を開けた瞬間、私は自分がどこにいるのか分からなくなって――すぐ、分かった。


 外套の温度。

 胸の鼓動。

 そして、ほどけない腕。


 カイゼルの腕の中だった。私は動こうとして、止まる。逃げない。息を吐く。

 首もとの印が、彼の胸に軽く触れている。帰り道が、いちばん近いところにある。


「……起きたか」

 掠れた声。目は開いていないのに、返事だけは落ちない。

「はい」

「……まだ寝ろ」

「もう起きました」

「なら」

 カイゼルの腕が、ほんの少しだけ強くなる。

「離すのは、あと」


 心臓が跳ねた。

 私は喉に手を当てて笑いそうになり、代わりに息を吐いた。

「陛下、朝から独占です」

「昨日からだ」

「……長いです」

「足りない」


 短い言葉で、平然とそんなことを言う。

 私は負けて、額を外套にこすりつけた。温かい。怖さが溶ける。


 ノック。

 控えめな音。マルタの声がする。


「先生。起きてるなら、飲ませるものがある」

 ――“飲ませる”。強い。

 私は思わず起き上がろうとして、カイゼルの声が落ちた。


「入るな」

 低い。短い。容赦がない。

 扉の向こうが一瞬静かになり、次にマルタのため息。


「……はいはい。じゃあ置く。絶対に冷ますなよ、皇帝」

「分かった」


 扉の外に椀が置かれる音がして、足音が遠のく。

 私は目を丸くしたままカイゼルを見る。


「陛下、いま……」

「お前の呼吸を邪魔させない」

 当たり前みたいに言って、彼は私の髪を指でそっと梳いた。触れ方が丁寧すぎて、胸がまた熱くなる。


 カイゼルはようやく腕をほどいて立ち上がり、扉の外の椀を取って戻ってくる。

 蜂蜜湯。まだ湯気が立っていた。


「飲め」

「……陛下が飲ませるんですか」

「そうだ」

 断言。逃げ道なし。


 私は観念して口を開けた。温かい甘さが喉に落ちて、声の芯が少し戻る。

 カイゼルは一口ごとに、私の顔色を確認する。医者みたいな目。いや、もっと……“自分の大事なもの”を見る目。


「……ありがとう」

 私が言うと、カイゼルは眉を寄せた。

「礼はいらない」

「じゃあ何がいるんですか」

「返事」


 返事。ここだ、の返事。

 私は息を吐いて、指を絡めた。


「ここにいます」

「うん」

 カイゼルの口元が、ほんの少しだけほどけた。


 そのとき、廊下の向こうで小さなざわめき。

 見張りが走りかけて、止まる気配。待つ練習の足音。


 ローガンの声が遠くで響く。

「先生、変な紙がまた来た。……が、燃やした」

 私は息を呑む。

「ローガン、勝手に――」

「先生が見る前に、呼吸が乱れるだろ」

 ぶっきらぼうなのに、優しい言い方。


 隣でカイゼルが低く言った。

「正しい」

「陛下まで!」

「お前が揺れるのが嫌だ」


 私は頬が熱くなって、椀の縁に視線を落とした。

 守られるのは嬉しい。でも、守られすぎると、怖い。

 それを言おうとして、言葉が詰まる。


 カイゼルが先に言った。

「窒息させない」

 まるで心を読んだみたいに。

「お前が嫌なら、止める。選べるようにする。……だが危険は、私が先に折る」


 胸の奥が、ふっと軽くなる。

 独占じゃない。囲い込みじゃない。

 私の“選べる”を守る溺愛だ。


 私は首もとの印に触れ、息を吐いた。

「じゃあ……今日も、迎えに来てください」

「もう来ている」

 カイゼルはそう言って、私の指をほどけない形に絡め直した。


 外の風が窓から入り、灯りが揺れる。

 溺愛は派手じゃない。

 静かに、確実に、私の帰り道を囲ってくる。


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