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第87話 返事は、腕の中

 送り主不明の紙を握ったまま、私は窓辺で息を吐いた。

『見せたなら、切れる』

 短い脅しほど、心に刺さる。――また揺らされる。首もとの印に指が伸びて、止まる。


「触るな」

 背後から低い声。振り向くより先に、カイゼルの外套が私の肩にかかった。温度が落ちる。呼吸が戻る。


「……ここ」

 私が小さく言うと、カイゼルが迷いなく返す。

「ここだ」


 そして、紙を私の手からそっと抜き取った。破り捨てない。怒りで大きくしない。代わりに、私の視線を自分へ戻す。


「怖いか」

「少し」

「よし。なら、私の側へ」


 言い方が命令みたいなのに、押しつけじゃない。逃げ道を塞ぐんじゃなく、帰り道を差し出す言い方。

 私は頷いて、彼の袖を軽く掴んだ。掴んだ瞬間、胸の奥がほどけるのが分かった。


 医務室の奥の小部屋。風が通るように窓は少し開けたまま。灯りは強くない。影が尖らない。

 カイゼルは私を椅子に座らせ、蜂蜜湯を手渡した。


「飲め」

「陛下も」

「あとで」

 言い切ってから、少しだけ声を落とす。

「……今は、お前が先だ」


 ずるい。

 私は喉に手を当てて笑いそうになり、代わりに一口飲んだ。甘さが、怖さの角を丸くする。


 カイゼルは私の前に膝をつかず、でも視線を同じ高さに落とした。逃げない目で、まっすぐに言う。

「切らせない。お前も、印も」

「……私は物じゃありません」

「知っている」

 即答。

「だから、奪わせない。選ぶのはお前だ。だが――お前が揺れるなら、私が受け止める」


 胸が熱くなる。

 私は首もとの印に触れ、息を吐いた。

「受け止める、って……重いですよ」

「重くない」

 カイゼルの指が、私の指に絡む。ほどけない返事。

「私が欲しいのは、お前の笑いと、戻ってくる息だ」


 そんなの、反則だ。

 私は目を逸らしかけて、やめた。逃げたら、また紙の言葉が勝つ。


「……じゃあ」

 私は小さく言う。

「抱きしめるの、許可します。怖いときだけ」


 カイゼルの目が、わずかに揺れた。驚きと、嬉しさと、守る決意がいっぺんに混ざった顔。

 次の瞬間、彼は急がずに近づいて、私を包んだ。強くない。息ができる抱き方。逃げられる余白のある、でも離さない腕。


「……怖いか」

 耳元の声が低い。

「いまは……もう大丈夫です」

「なら、眠れるまでここにいる」

「皇帝が、番をするんですか」

「お前の番は、私がする」


 私はこらえきれずに小さく笑って、外套の布に額を押しつけた。

 首もとの印が、彼の胸に軽く当たる。見せるためじゃない。帰るための合図が、ちゃんと“ここ”に触れている。


「リュシア」

 名前を呼ばれて、胸がきゅっとなる。

「はい」

「ここにいてほしい」

「……はい。ここにいます」


 その返事のあと、カイゼルの腕がほんの少しだけ強くなる。

 脅しの紙は、もうただの紙だ。

 いま私を縛っているのは怖さじゃなくて――ほどけないほど優しい、迎えの腕だった。


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