第82話 門の外の「迎え」
朝の空気は澄んでいて、神殿の石畳がひんやりしていた。
私は胸の内側の印をそっと押さえ、長く息を吐く。昨日の夜のざわめきが、少しだけ遠のく。
若い神官が見送りに来て、深く頭を下げた。
「……戻れました。ありがとうございます」
「戻ったのは、あなたが息をしたから」
私は白いリボンを軽く揺らして返す。彼は涙をこぼしそうな顔で、うなずいた。
門の近くに、元婚約者も立っていた。目の下の影はまだ消えていない。けれど、まっすぐ立っている。
「……お前が来たせいで、また揉める。そう言う奴もいる」
「うん」
「でも、庭は開けておく。……息ができる場所にする」
その言い方が不器用で、胸がきゅっとした。私は頷くだけにした。今は謝罪の言葉より、続ける行動が必要だから。
隣でカイゼルが外套の内側の布を確かめる仕草をした。黒い布の端、結び目。
私たちだけの合図。迎えに行ける合図。
「行く」
低い声。急がせない間がある。
「はい」
門をくぐる直前、背中に視線が刺さった。
そして、どこからか落ちてきた声。
「迎えに来たよ」
胸が跳ねた。甘い声。安心する形をした声。
思わず振り向きかけて、私は息を吐いた。吸わない。焦らない。
カイゼルが私の指を絡め、黒い布の結び目に指先を当てる。――本物の合図。
「……ここ」
私が喉に手を当てて小さく言うと、カイゼルが返す。
「ここだ」
その返事の重さで、さっきの声が薄っぺらく聞こえた。
門の影が揺れ、白い布の端がすっと引いていく気配。追わない。追わなくても、戻れるから。
外へ出ると風が強くなり、髪が揺れた。
カイゼルが私の肩に外套をかけ直す。触れ方が、守るみたいに丁寧だ。
「……まだ、揺らしてくる」
「うん。でも、合図がある」
「増えたな」
「陛下が増やしました」
カイゼルは少しだけ目を逸らして、それでも指はほどかない。
「お前が戻るなら、迎えに行けるようにしたい」
「もう、できてます」
私は胸の内側の印を押さえ、息を吐いた。
「印が見えなくても。名前が出なくても。……待ってくれる手があるから」
門の向こうで、元婚約者が小さく頭を下げた。
私は振り返らずに、白いリボンを指先で整える。戻る場所は、過去じゃない。選んだ“今”のほう。
「帰る」
カイゼルが言う。
その言葉は、追い立てる言葉じゃなかった。迎えに来る言葉だった。
「はい。帰ります」
私は笑って、指を握り返した。
門の外でも、帰り道は消えない。隣の返事が、いちばん近い合図だから。




