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第81話 迎えに来る言葉

 宿の廊下の騒ぎが収まっても、胸の奥はまだ熱を持っていた。冷たい匂いが薄れても、怖さはすぐには消えない。消えないなら、息をして、戻るだけだ。


 客間に戻ると、カイゼルが窓を少し開けた。夜風が入り、灯りの炎が小さく揺れる。

 私は椅子に腰を下ろし、喉に手を当てた。


「……疲れたか」

 低い声。急かさない間がある。


「少し。でも、戻れました」

 そう言ったら、カイゼルの指が私の指をほどけない形に絡めた。返事。ここだ。


 私は胸の内側にしまった印を、指で確かめる。

「落ちたままにして、ごめんなさい」

「謝るな」

 カイゼルは即座に言って、少しだけ目を逸らした。

「お前が揺れないために隠した。それでいい」


 その言葉に、喉の奥がきゅっとした。

 重い、と言われた夜が頭をよぎる。守るほど捨てたくなる、と。

 私は息を吐いて、その紙の声を外へ追い出す。


「……陛下は、捨てたくなりますか」

 小さく聞くと、カイゼルの視線が戻ってきた。逃げない目。


「ならない」

 短い返事。

 でもそれだけじゃ足りないみたいに、カイゼルは言葉を探した。


「お前がいないと、戻れない」

 掠れた声が、灯りの下で落ちる。

「だから……迎えに行く。印が落ちても。声が出なくても。呼べなくても」


 胸が熱くなって、笑いそうになって、泣きそうにもなる。

 私は喉に手を当て、ゆっくり息をした。


「迎えに来る、って……言葉がずるいです」

「……ずるくない」

 不器用に否定して、カイゼルは私の手を離さない。


 私は膝の上で白いリボンを結び直し、ふと思いつく。

「じゃあ、印をひとつだけにしないで」

「どうする」

「陛下も、合図を持って。胸に手を当てるのも合図だけど……触れられない夜もあるから」


 カイゼルは少し考えてから、自分の外套の内側へ手を入れた。

 取り出したのは細い布。黒い布の端に、小さく結び目がある。


「これを持つ」

「それ、どこで」

「さっき、お前が落とした印を覆った布だ」

 淡々と言うのに、指先は丁寧だった。

「私の手元に置く。お前が見失いそうなら、これを触る。――迎えに行く合図だ」


 私は息を吐いて、うなずいた。

「じゃあ私は、喉に手を当てます。声が出なくても、ここにいるって」

「いい」

 カイゼルの声が、少しだけやわらかくなる。


 そのとき、廊下の向こうで誰かが走りかけて、足音を止めた。

 若い神官が戸口で立ち尽くし、こちらを見て、そっと頭を下げた。

 言葉は要らない。戻れた、という合図。


 扉が閉まったあと、カイゼルが低く言った。

「明日、ここを出る。……戻るべき場所へ」

 私の胸がきゅっとした。

「私の国のこと、まだ……」

「終わっていない。だが、お前は一人で背負うな」

 カイゼルは指を絡め直し、はっきり言った。

「迎えに行く。お前が戻れるように」


 私は笑ってしまった。怖さがほどける笑い。

「……はい。迎えに来てください」

「もう来ている」

 カイゼルがそう言って、私の手を軽く引いた。


 窓から風が通る。灯りが揺れる。

 印は胸の内側にある。合図は増えた。

 そして何より――迎えに来る言葉が、いちばん近くで鳴っていた。


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