第80話 迎えに行ける合図
宿の廊下は、夜になると音が大きく聞こえる。板のきしみ、風のうなり、遠い笑い声。
若い神官は胸を押さえたまま、震える声で言った。
「導師は……“灯りの届かない部屋”を残していきました。そこに、人を迷わせる合図を……」
私は息を吐いて、白いリボンを指で整えた。
「迷わせるのは、ひとりにするため」
隣でカイゼルの影が揺れない。言葉より先に、指が絡む。返事。ここだ。
「案内して」
私が言うと、若い神官は頷いた。
廊下の突き当たり。灯りが届きにくい角。
そこに、薄い香の残りがあった。甘くない、冷たい匂い。息が浅くなる匂い。
(急げ、迷え、置いていけ——そう言われる匂い)
私は吸いそうになって、口から長く吐いた。
カイゼルが低く言う。
「吐け」
「うん」
扉の前に立った瞬間、内側から小さな声がした。
「……ここだ」
カイゼルの声に似ている。けれど、待つ間がない。怖さを増やす速さ。
私は扉に触れず、リボンをゆっくり揺らした。ひらり、ひらり。
「本物の返事は、急がせない」
カイゼルが、扉の前に立つ。怒鳴らない。押さない。
ただ、揺れない声で言った。
「開けろ」
扉の隙間から、黒い札が滑り出た。
『迎えに行けない皇帝は、置いていく』
胸がきゅっとした。
でも、その言葉は私を動かさない。私は胸の内側の印を押さえ、息を吐いた。帰り道は、物だけじゃない。
「迎えに行けます」
私は小さく言った。
「合図があるから」
カイゼルの指が、私の指をほどけない形に絡め直す。
そして、彼は自分の胸にそっと手を当てた。
——いつも私が印を確かめる場所。真似しにくい、温度の動き。
「これが合図だ」
低い声。待つ間のある返事。
若い神官が息を呑む。
「……導師は、それを嫌がります。戻る人の癖を、いちばん嫌う」
カイゼルが頷き、扉の前で動かずに言った。
「出てこい。追わない。ただ、ここにいる」
沈黙のあと、扉がきい、と開いた。
中にいたのは宿の給仕の服を着た男だった。手には小さな袋。冷たい匂いの元。目は落ち着かない。
「……違うんだ、これは」
男が言いかけた瞬間、私は一歩だけ近づき、でも距離は保った。
「怖いなら、怖いって言っていい。言えたら戻れる」
男の唇が震えた。
「導師が……戻る人を嫌った。待つ人を嫌った。だから、急がせろって……」
カイゼルの声が低く落ちる。
「終わりだ」
男は袋を落とした。
私はすぐ「開けて」の合図を作る。窓が開く。風が通る。匂いが薄れる。
若い神官が、涙をこぼしながら息を吐いた。
「戻れます……」
「戻れます」
私は頷いた。
部屋を出て、廊下の灯りの下に戻る。
カイゼルが私の肩に外套をかけ、低く言った。
「迎えに行ける合図は、印だけじゃない」
「……胸に手?」
「ああ」
カイゼルは少しだけ目を逸らして、続けた。
「お前が息を吐く間、私が待つ。待てば、お前は戻る。——それが、私の合図だ」
胸が熱くなって、私は喉に手を当てた。
「じゃあ私も、陛下の合図になります」
「どうやって」
「陛下が焦りそうなとき、私が先に吐きます。戻ってこいって」
カイゼルの指が、きゅっと絡んだ。返事。ここだ。
灯りの下で、怖さはまだ残っている。
でも、迎えに行ける合図は増えた。
それは道具じゃなく、待ってくれる手の温度だった。
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