第79話 帰り道は、声より近い
広場の灯りが落ち着いたあと、私は胸の内側にしまった印をそっと押さえた。金属の冷たさが、今日はやけに心強い。落ちた音は怖かったのに、今は「戻れる」と教えてくれる。
宿へ戻る途中、カイゼルが私の歩幅に合わせて黙って歩いた。言葉が少ないのに、置いていかれない感じがする。私が息を吐くと、同じ速度で息を吐いてくれる。
「……さっき」
カイゼルが短く言って、喉に手を当てた。
「笑われても、お前は止まらなかった」
「止まれたから、です」
私は答えた。
「走らないって決めたから、戻れた」
宿の前で風が通り、灯りが揺れた。カイゼルは戸口で立ち止まり、私を見る。視線がまっすぐで、少しだけ不安が混じっている。
「また、揺らされる」
その声は命令じゃなくて、弱さを隠さない声だった。
「次は、その印だと言っていた」
私は胸元を押さえ、うなずいた。
「だから、ここにしまいました。奪われにくい場所に」
カイゼルの指が、私の指をほどけない形に絡めた。返事。ここだ。
それから、珍しく言葉を選ぶみたいに間を置いて、低く言った。
「……印がなくても、迎えに行けるようにしたい」
「どうやって?」
「お前の帰り道を、私のほうにも作る」
胸が熱くなる。甘いのに、まっすぐで、逃げられない。
私は喉に手を当てて笑ってしまいそうになり、代わりに息を吐いた。
「じゃあ、合図を増やしましょう」
「合図?」
「言葉より近い合図。視線とか、待つ間とか……“その人らしさ”です。真似できないもの」
カイゼルの眉が少しだけ動く。理解したときの顔だ。
「……お前は、私の癖を知っている」
「はい。返事のしかた、待ちかた、怒らない止めかた」
カイゼルは視線を逸らして、でも指はほどかない。
「それを、皆にも教えるのか」
「教えます。ひとりにしない方法は、誰でも覚えられるから」
そのとき、廊下の奥で布が擦れる音がした。誰かが息を呑む気配。
私は反射で身構えかけて、すぐ息を吐く。焦らない。
暗がりから現れたのは、あの若い神官だった。顔色が悪い。唇が震えている。
「……すみません。導師の残した人が、まだ」
言葉が途切れ、彼は胸を押さえた。眠れていない息だ。
「大丈夫」
私は白いリボンをゆっくり揺らし、目で合図する。吐いて。
若い神官が真似して息を吐き、肩が少し落ちた。
カイゼルが低い声で言う。
「隠れて動くなら、こちらは灯りを増やすだけだ」
そして私のほうを見て、短く続けた。
「お前は、休め。戻るために」
私はうなずいて、指を握り返した。
帰り道は印だけじゃない。声だけでもない。
待ってくれる手と、戻ってくる息と、隣にいる影。――それが、いちばん近い合図だ。




