第76話 待てない足音
『次は、待てなくする』
札の言葉が、指先に冷たく残っていた。
待てなくする――焦らせる。走らせる。判断を奪う。
そして、ひとりにする。
私は首もとの印を胸の内側で確かめ、長く息を吐いた。
待てる合図を増やす。
それは“動かない”ための準備じゃない。“戻ってくる”ための準備だ。
昼、神殿の外で小さな騒ぎが起きた。
人だかりの向こうで、誰かが泣いている声がする。
「子どもが倒れた!」
「早く! 誰か呼んで!」
その瞬間、胸が跳ねて、足が勝手に前へ出そうになる。
走るな。息。
私は口から長く吐き、白いリボンを握った。
「……待て」
隣でカイゼルの低い声。
彼は私の前に半歩出て、視線だけで“ここ”を作る。
私はうなずいて、指を絡めたまま言った。
「行きます。でも、走らない。……二人で」
人だかりを抜けると、石畳に小さな子が座り込んでいた。顔は青くない。呼吸も乱れていない。
――倒れてない。泣いているのは母親で、子どもは困った顔をしているだけだ。
そして子どもの足元に、白い粉。
冷たい匂いが、ふわり。
罠だ。
“待てなくする”ための餌。
私はすぐ息を吐いて、手のひらで“開けて”の合図を作る。近くの店の戸が開き、風が通る。匂いが薄くなる。
「大丈夫。座ってていい」
私は子どもに目線を合わせ、ゆっくり言った。
「怖かった?」
子どもはこくりと頷いた。
母親が涙を拭いながら言う。
「ごめんなさい……誰かが、突然“倒れた”って叫んで……!」
私は母親の肩に触れたい衝動を抑えて、代わりに白いリボンをゆっくり揺らした。
「待てたら、戻れる。……今、待てました」
カイゼルが低い声で言う。
「叫んだ者は?」
人だかりの中から、誰かが小さく指をさした。
路地の陰。白い布が一瞬だけ揺れ、すぐ消える。
追いたくなる。
でも追ったら、相手の勝ちだ。
私は息を吐き、指を絡めたまま、カイゼルを見上げた。
「追わない。囲う」
カイゼルが頷く。
「囲え。灯りを持て」
騎士たちが静かに動く。走らない。騒がない。
路地の入口に灯りが並び、逃げ道が減っていく。
路地の奥から、黒い札が滑ってきた。
『早くしろ。置いていけ』
私は札を拾い、長く息を吐いた。
「置いていかない」
掠れ声でも、言い切る。
カイゼルの指が、ほどけない形に絡む。
「待てる」
短い返事。揺れない返事。
私は子どもへ微笑んで言った。
「もう大丈夫。……助けは、急ぐだけじゃないよ。戻ってくるほうが強い」
母親が涙のまま、何度も頷いた。
そして私は思う。
“待てない足音”は、私たちの中にもある。
だからこそ、息をして、待つ。
それが、奪われない帰り道になる。




