第73話 胸の中の印
庭の灯りが消えたあとも、私の胸の奥はまだ少しだけざわついていた。
落ちた印は、いま胸元の内側にしまってある。冷たい金属の感触が、服越しに小さく伝わってくる。
客間に戻ると、カイゼルが窓を少し開けた。風が通り、夜の匂いが薄くなる。
その仕草だけで、私は息を思い出せた。
「……隠したな」
カイゼルが首もとを見て言う。
「見せたくなくて」
私は正直に答えた。
「印があるから大丈夫、って思わせたくないんです。落ちたら怖くなる。奪われたら、余計に揺れる」
カイゼルは黙って、私の手を取った。指先が絡む。返事の形。
それから、低い声で言った。
「だが、触れていい」
「え」
「怖いときに触れるのは、弱さじゃない。……戻るためだ」
胸があたたかくなる。私は小さく笑って、喉に手を当てた。
「陛下、優しさが不器用です」
「……うるさい」
そう言うのに、指はほどかない。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
元婚約者が立っていた。目の下の影はまだ濃いけれど、さっきより顔色がいい。
「……導師の通路、知ってる」
短く言って、視線を落とす。
「俺が子どもの頃、迷い込んだ。そこに、匂いの袋も鈴も隠されてた。……今も残ってるはずだ」
私が答える前に、カイゼルが一歩前に出た。
「案内しろ」
命令みたいなのに、声は冷たくない。守るための短さ。
通路は石が冷たく、音が響いた。
奥の小部屋にたどり着くと、棚の裏に袋がいくつも積まれていた。あの冷たい匂い。胸がきゅっとなる。
私は息を吐いてから、布で袋を包む。
「吸わない。焦らない」
そのとき、棚の下から黒い札が滑り出た。
『胸に隠したなら、次は“心”をほどく』
指先が冷えた。
心をほどく――迷わせる。疑わせる。ひとりにする。
私は札を握りしめて、息を吸って吐いた。
怖い。だけど、戻れる。隣に手がある。
カイゼルが私の頬の近くまで身をかがめ、低く言った。
「ほどかせない」
そして、私の胸元に視線を落とす。
「印を出せ。私が付け直す」
私は首を振った。
「今は……まだ」
言いかけたところで、カイゼルの眉がわずかに動く。怒りじゃない。不安だ。
だから私は、胸元の内側を指で押さえ、ゆっくり言った。
「ここにあるって、分かってれば大丈夫です。奪われても、私が選び直せる」
カイゼルの指が、きゅっと強くなる。
それが返事だった。
元婚約者が、苦しそうに息を吐いた。
「……お前、変わったな」
「変わったんじゃない」
私は小さく首を振る。
「戻る方法を覚えただけ」
通路を出ると、夜風が頬を撫でた。
カイゼルが私の指を絡め直し、短く言う。
「呼べ。名前が出なくてもいい」
私はうなずいて、胸の内側の印にそっと触れた。
「……ここ」
「ここだ」
たったそれだけで、心はほどけない。
ほどけるのは、怖さのほうだ。




