第71話 印が落ちても
灯りの列が揺れて、神殿の庭に薄い影ができた。
触れない夜の合図は、うまく回り始めている。白いリボンが揺れたら「ここにいる」。うなずけたら「戻れた」。
――だからこそ、次の冷たさは、余計に刺さった。
首もとが、ふっと引かれる。
細い鎖が、見えない指に触れられたみたいに震えた。私は息を止めかけて、すぐ吐いた。吸うのは後でいい。吐けば、戻れる。
灯りの外れで、あの優しい形の声が落ちる。
「その印は、切れるわ」
同時に、鎖がまた引かれた。
人の手じゃない。触れない夜でも届く“何か”。だから厄介だった。
私は首もとを押さえそうになって、手を止めた。
慌てて触れれば、怖さが増える。怖さが増えたら、相手の思う通りだ。
白いリボンを高く掲げ、ゆっくり揺らす。ひらり、ひらり。
「見て。ここ」
掠れた声でも、言葉は折れなかった。
人々が一斉にこちらを見る。
その視線が、私を今に戻す。
隣にいたカイゼルが、私の前に半歩出た。触れられない距離のまま、影を作るみたいに立つ。
そして、低い声で言う。
「やめろ」
その声は短いのに、灯りの重さがあった。
怖さを増やさない返事。待ってくれる返事。
――カチリ。
鎖の留め具が外れた音がした。
次の瞬間、小さな金属が石畳を転がる。冷たい光。私の帰り道の印が、落ちた。
ざわめきが跳ねた。
誰かが拾おうとして、指が止まる。触れない夜の“壁”に弾かれたように。
私は息を吐いて、リボンをもう一度揺らす。
「拾わなくていい。見て、うなずいて」
人々が、ひとり、またひとりとうなずく。ざわめきが薄まる。
カイゼルが、鞘の先でそっと印を引き寄せた。手で掴まない。乱暴にしない。
私の前に置いて、目で合図を送る。
――ここ。
私はしゃがんで印を拾い上げ、掌で包んだ。冷たいのに、不思議と震えは小さい。
落ちたのに。切られたのに。私は、ひとりじゃないから。
顔を上げると、カイゼルがこちらを見ていた。
声にならない口の動きで、ゆっくり言う。
(迎えに行く)
私は笑いそうになって、喉に手を当てた。
「……印がなくても、戻れます」
掠れ声で言うと、カイゼルが低く返した。
「戻れ。私が、ここにいる」
落ちた印を、私は首もとへ戻さなかった。
代わりに、胸の内側へしまう。見せびらかさない。奪わせない。
そして白いリボンを、もう一度だけ揺らした。
灯りの外れで、白い影が舌打ちする気配がした。
けれど今夜、奪えたのは金属の音だけ。
帰り道は、消えなかった。




