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第70話 触れない夜の合図

 神殿の庭に、やさしい灯りが並んでいた。

 名前が出せない夜でも、みんな少しずつ“ここ”に戻れるようになっている。目を見て、うなずいて、息を吐く。それだけで、怖さは薄くなる。


 ――なのに。


 ふわり、と冷たい気配が混じった瞬間、母親が子どもへ伸ばした手が止まった。

 触れようとした指先が、見えない壁に弾かれたみたいに固まる。


「……触れない」

 誰かが呟く。ざわめきが広がり、怖さが跳ねる。

 子どもは泣きそうな顔で母親を見上げ、母親は動けないまま唇を噛んだ。


 白い影が、灯りの外れで笑う気配がした。


「ほら。触れられないと、戻れないでしょう」


 私は息を吐いて、胸に手を当てた。

 触れなくても、戻れる合図を作る。


 腕の白いリボンをほどき、灯りの前で高く掲げる。

 ひらり、ひらり。ゆっくり揺らす。


「見て。触れなくてもいい」

 掠れた声で言う。

「リボンが揺れたら、“ここにいる”。返事は、うなずきでいい」


 母親が、私の揺らす白を見た。

 子どもも見た。

 ふたりが、同じタイミングで小さくうなずく。――返事ができた。


 ざわめきの中、隣でカイゼルが私の肩に外套をそっとかけた。触れるより、離れない温度で守るみたいに。

 そして、私の視界の端で、彼の指が合図を作る。


 “ここ”。


 名前も、手も奪われても、戻ってこられる。

 灯りと白い布と、待ってくれる間がある限り。


 白い影が舌打ちして、足元に黒い札を落として消えた。


『次は、その印だ』


 私は首もとの印に触れ、息を吐いた。

 カイゼルが、声にならない口の動きで言う。――奪わせない。


 私はうなずいて、白いリボンをもう一度揺らした。

 触れない夜でも、帰り道は消えない。


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