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第69話 名前がなくても、ここだ

 黒い札の言葉が、指先に残っていた。

『次は、“名前”を奪う』


 名前を呼べなくなったら、迷う。迷ったら、ひとりになる。

 私は首もとの印に触れて、息を吐いた。怖いまま、戻る。


「名前がなくても、戻れる合図を増やします」

 私が言うと、隣でカイゼルの指がきゅっと絡んだ。返事。ここだ。


 その夜、神殿の庭は静かだった。灯りはやさしく揺れ、風が通る。

 ……なのに、急に、空気が薄くなる。


「おかあ、……」

 子どもの声が途切れた。母親も口を開くのに、言葉が出ない。呼びたい名前だけが、喉の奥で引っかかって消える。


 ざわめきが広がり、怖さが膨らむ。

 その端で、白い影が笑う気配がした。


「ほら。名前がないと、ひとりね」


 私はすぐ、手のひらを上げた。止まれ。

 そして胸に手を当てて、ゆっくり吐く動きを見せる。吸うのは後でいい。吐けば戻れる。


「呼べなくても大丈夫」

 掠れた声で言う。

「目を見て。肩に触れて。返事は、うなずきでも、手でもいい」


 子どもは泣きそうな顔で母親を見上げ、母親は震える手で子どもの肩に触れた。

 子どもがそれにぎゅっとしがみつく。――返事ができた。


 隣で、カイゼルが私を呼ぼうとして息を詰めた。

 唇が動くのに、音にならない。名前だけが奪われている。


 私はすぐ、彼の手を取った。

 首もとの印を、その手のひらに押し当てる。冷たい金属が、ふっと温度を変える気がした。


「ここ」

 カイゼルが低く言った。

 名前じゃない。でも、確かな返事。


「ここにいます」

 私も返す。名前がなくても、戻れる。


 白い影が舌打ちする。

 けれど庭の人々は、もう走らない。叫ばない。代わりに、見て、触れて、うなずく。灯りの中で“ここ”を確かめ合う。


 怖さが薄れると、影の笑いも薄くなる。

 風が通って、空気が戻ってきた。


 カイゼルが私の指をほどけない形に絡めたまま、ぽつりと言う。

「名前がなくても、お前を見失わない」

 私は小さく笑って、同じように握り返した。

「私もです。返事は、ここにあります」


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