第67話 返事の練習
町のざわめきは、すぐには消えなかった。視線も、ひそひそ声も、私の背中に刺さる。
それでも私は、首もとの印に触れて、息を吐いた。吸うのは後でいい。吐けば、戻ってこられる。
「……今夜、神殿の庭を開ける」
元婚約者が、人の輪の前に出て言った。
「眠れない者は、来い。追い払わない。責めない」
ざわめきが揺れる。怖さが、少しだけ形を変える。
カイゼルの指が、私の指にそっと絡んだ。返事の形。ここだ、の合図。
日が落ち、神殿の庭に灯りが並ぶ。強すぎない灯り。影を作らない灯り。
私は前に立って、短く言った。
「祈りは、頑張ることじゃないです。戻ることです」
喉はまだ掠れる。でも届く。
「眠れない夜は、ひとりで耐えないで。呼んでいい。返事は声じゃなくてもいい」
人々の肩が、少しずつ下がっていくのが分かった。
私は手のひらを胸に当て、ゆっくり示す。
「いまは、吐きましょう。長く。……吐けたら、次が来ます」
庭に、静かな呼吸が広がった。
その中で、冷たい匂いがふわりと混じる。誰かが袋を落とした匂い。胸がきゅっとなる。
私はすぐ、口で息を吐いて、窓の形を空に描いた。
神殿の扉が開く。風が通る。匂いが薄まる。
人々がざわめきかけた、その瞬間――
「ここだ」
カイゼルの低い声が落ちた。
たったそれだけで、空気が戻った。
私は思わず、名前を呼ぶ。
「……カイゼル」
返事の代わりに、指がきゅっと絡む。ほどけない。
カイゼルは一歩前へ出て、町の人々へ向けて言った。
「彼女は、奪わない。戻す」
そして、私のほうを見て、少しだけ声を落とす。
「……ここにいてほしい」
胸が熱くなる。怖さが、ほどけていく。
私は頷いて、同じように返した。
「ここにいます。……戻ってくるために」
風が抜け、灯りが揺れ、庭の空気が軽くなる。
その端で、黒い札がひらりと落ちた。
『その返事を、真似してやる』
私は札を拾い、息を吸って吐いた。
返事を偽られても、戻る方法はひとつじゃない。
指先を絡めたまま、私は静かに言った。
「大丈夫。返事は、ここにもある」




