第66話 悪役令嬢の帰還、ではなく
城の外へ出ると、朝の空気が少しだけ甘かった。昨夜の衛兵は眠れたらしく、今朝は目がちゃんと前を向いていた。
その姿に、胸の奥がほどける。
――けれど、町へ一歩踏み出した瞬間、視線が刺さった。
「……追放された令嬢だ」
「隣国の皇帝が一緒だって」
「祈りを壊しに来たんじゃ……」
ざわめきが広がる。怖さが、言葉の形で迫ってくる。喉がきゅっと縮む。
私は首もとの印に触れ、息を吸って、ゆっくり吐いた。怖いまま戻る。
隣でカイゼルが、私の指をそっと絡めた。
返事の形。ここだ、の合図。
そのとき、屋台の陰から小さな袋が投げ込まれた。床に落ち、ふわりと冷たい匂いが立つ。
眠りを遠ざける匂い。ざわめきが一気に硬くなる。
「吸わないで!」
私は口で息を吐き、両手で“開けて”の合図を作った。近くの店主が戸を開け、風が通る。匂いが薄まる。
人の顔が、少しずつ戻ってくる。
カイゼルは袋を足で踏みつけず、布でそっと包んだ。乱暴に扱わない。怖さを増やさない。
そして町の人々へ、低い声で言った。
「彼女は奪いに来たのではない。戻しに来た」
その言葉に、誰かが小さく笑った。笑いは、怖さをほどく。
でもすぐに、鋭い声が飛ぶ。
「戻す? 追放された者が? 悪役が?」
私は息を吸って、吐いて、前へ出た。隣の手はほどけない。
「私は悪役でも、被害者でもありません。……医師です」
声は掠れているけれど、届いた。
「眠れない夜を増やす祈りは、祈りじゃない」
私は続ける。
「眠れなかったら、呼んでいい。返事は声じゃなくてもいい。目でも、手でもいい。戻っていい場所を、一緒に作りたい」
ざわめきが揺れた、そのとき。
「……彼女を追い出したのは、俺だ」
元婚約者が人垣を割って出てきた。顔色はまだよくない。それでも、まっすぐ立っている。
「守ったつもりで壊した。だから今度は、壊したぶんを作り直す。……手伝わせてくれ」
沈黙のあと、誰かが小さく頷いた。次に、別の誰かも。
風が通ったみたいに、空気が軽くなる。
カイゼルが、私だけに聞こえる声で言った。
「呼べ。揺れそうなら」
私は小さく笑って、喉に手を当てる。
「……カイゼル」
「ここだ」
その返事があるから、私は立っていられる。
町の真ん中で、怖さをほどいて、息を取り戻す。
悪役令嬢の帰還じゃない。――戻る場所を作る、ただの一歩だ。




