第65話 眠りに戻る音
神殿の扉を開け放ったまま、日が傾いていった。
冷たい風が通るたび、胸の奥のつかえが少しずつほどける。香の匂いはもう、鼻の奥に刺さらない。
今夜は、城の客間を借りることになった。
私は窓を少し開け、灯りを落として、蜂蜜湯を用意する。眠るための準備は、どこでも同じ。戻ってくるための手順。
けれど、静かになったころ――扉が控えめに叩かれた。
「……先生。眠れなくて」
門番の若い衛兵だった。昼に倒れた子だ。目の下に影があり、肩が固い。
私は椅子を指さし、ゆっくり座らせた。
「息、吐こう。吸うのは後でいい」
背に手を当てると、浅い呼吸が少しだけ揺れた。
「怖い?」
衛兵はこくりと頷いて、唇を噛む。
「怖いなら、呼んでいい」
私は窓の外の暗さを見てから、首もとの印に触れた。
「戻ってくる合図を作るの。……ここは、戻っていい場所」
衛兵の目が、ほんの少しだけ濡れる。
「戻って……いいんですか」
「いい。眠れなくても、弱くない」
その言葉を言い終えたとき、廊下の向こうから足音が近づいた。
元婚約者が扉の前で止まり、迷うように拳を握っている。手には小さな包み。
「……これ」
差し出されたのは、蜂蜜と、喉に優しい葉の束だった。
「お前が、いつも……持ってたやつだろ」
胸がきゅっとした。けれど私は、包みを受け取って頭を下げた。
「ありがとう。……今は、必要な人に使う」
元婚約者は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
そこへ、低い声が重なる。
「彼女は、いま働いている」
カイゼルが廊下の影から現れた。私を叱るでもなく、ただ隣に立つ。
「邪魔をするなら、去れ」
元婚約者は悔しそうに歯を食いしばり、それでも視線を落として言った。
「……邪魔はしない。ただ……戻ってくれて、助かった」
「助かるなら、眠れ」
カイゼルの声は掠れていたが、揺れなかった。
「眠って、戻ってこい」
その言葉に、衛兵の肩がふっと落ちた。
私は蜂蜜湯を口元へ運び、ゆっくり飲ませる。窓の風が、部屋の空気を軽くする。
しばらくして、衛兵のまぶたがゆっくり閉じた。
浅かった息が、深くなる。
私はそっと立ち上がり、廊下へ出る。
カイゼルが私の手を取った。指先が絡む。返事の形。
「……怖かったか」
「少し。でも、戻れました」
「呼べ」
「……カイゼル」
「ここだ」
その返事だけで、胸の奥の夜が静かになる。
遠くで、神殿の鐘が鳴った。あの高い鈴じゃない。眠りを追い払う音でもない。
人が眠るための、やさしい音。
私は窓の隙間から入る風に目を閉じた。
帰り道の印は外せない。
でもそれは鎖じゃない。――眠りに戻るための、合図だ。
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