第62話 根を切る場所
ちりん。
通路の奥で鳴った高い鈴は、まるで「まだいる」と告げるみたいだった。
膝をついた黒いローブの男は、落とした刃を見つめたまま動けない。
ローガンとフィンは距離を保ち、逃げ道だけを塞いでいる。押さえつけない。怖がらせない。――でも逃がさない。
カイゼルの指が、私の指をほどけない形に絡めた。
そのまま、低い声で言う。
「根は、ここではない」
私も息を吸って吐いて、うなずいた。
鈴は“合図”。本当の根は、鈴を鳴らせる場所――もっと奥だ。
元婚約者が顔をしかめる。
「神殿の奥には、入れないはずだ。許しが必要で……」
「許しは要らない」
カイゼルが言い切った。
「人の眠りを奪う場所なら、閉じていい場所ではない」
年配の神官が遅れて現れ、穏やかな顔のまま口を開いた。
「陛下、ここは神殿の聖域――」
「聖域は人を守るためにある」
カイゼルの声は冷たくも乱暴でもない。線を引く声だ。
「奪うなら、聖域ではない」
私は首もとの印に触れた。
怖さが胸を叩く。でも、隣にいる手が戻してくれる。
「奥へ行きましょう」
私は言った。
「匂いも鈴も、全部“入口”です。根は、そこに“混ぜる場所”がある」
若い神官が震えながら、一歩前に出た。
「……奥の扉、鍵は……わたしが」
年配の神官がきっと睨む。
「裏切るのか!」
若い神官は涙をこぼしながら首を振った。
「裏切りじゃない。……戻りたいだけです。祈りを、祈りに戻したい」
その言葉に、胸が少しだけあたたかくなる。
戻りたい、は強い。帰り道と同じだ。
鍵が回り、奥の扉が開いた。
冷たい空気が流れ出てくる。香の匂いは薄いのに、頭が冴えすぎる嫌な感じがある。
眠れない夜の匂いが、ここに溜まっている。
部屋の中には、香の材料が並び、布の印が積まれ、鈴の部品が机に置かれていた。
そして壁の奥、祭壇の裏へ続くさらに細い通路。
ちりん。
鈴の音が、そこから鳴った。
カイゼルが一歩踏み出しかけて、私は指先を絡めたまま目で合図を送った。
焦らない。追わない。
灯りを前へ。
ローガンがランプを掲げ、通路の角を照らす。
そこに――白いローブの人物が立っていた。顔は半分、布で隠されている。手には杖。先端に鈴。
そして、もう片方の手には、布を切るための小さな刃。
「しつこいですね」
私は息を吸って吐いて言った。
「帰り道を切りたいの?」
白いローブが、ゆっくり首を傾ける。
「帰り道があるから、戻る。戻るから、真実が露わになる。――困るのよ」
声は、あの優しい形。聞く人を安心させる形をした、怖い声。
元婚約者が息を呑む。
「……その声……神殿の奥の、“導師”」
導師。
神殿の上にいる人。みんなが従う人。
だからこそ、“罪”だと言えた。だからこそ、国中に布を配れた。
カイゼルの声が低く落ちる。
「お前が根か」
導師は笑った。
「根? 違うわ。私は“秩序”。眠らない国は従う。従う国は整う。――それが祈りよ」
私は首もとの印を握り、息を吸って吐いた。
「祈りは、眠れない人を増やすことじゃない」
掠れた声でも、はっきり言う。
「祈りは、戻ってこられる場所を作ることです」
導師の笑みが、ほんの少しだけひび割れた。
「……戻る場所?」
「はい」
私は指を絡めた手を少し持ち上げる。
「ここ。ひとりにしない。返事を奪わせない。――それが、根を切る方法」
導師は鈴を鳴らそうとした。
ちりん、と鳴る前に、カイゼルが一歩だけ前へ出て、杖を持つ手首を“触れずに”止める位置に立った。灯りが、導師の影を薄くする。
「鳴らすな」
カイゼルが言う。
「鳴らしても、揺れない」
私も頷く。
「息をするから。戻ってくるから」
導師の目が、初めて揺れた。
“秩序”の仮面の下に、焦りが見えた。
根は、ここにある。
そして私たちは、もう逃げない。




