第61話 切る、と言った手
『外さないなら、切る』
黒い札の文字は短いのに、喉の奥に冷たく残った。
“切る”。帰り道を。約束を。――私を、ひとりにするために。
私は首もとの印に触れ、息を吸って、ゆっくり吐いた。
怖い。でも、怖いまま立っていられる。隣に、手があるから。
神殿の扉は開け放たれ、風が通っていた。香の匂いは薄れつつある。
若い神官は震えながら、袋を抱えている。
年配の神官は、まだ穏やかな顔のまま、けれど目が冷たくなっていた。
「……切る、だと?」
元婚約者が低く唸る。
「誰がそんなことを」
返事は、言葉じゃなく音で来た。
ちりん。
高い鈴。
神殿の奥、祭壇の裏の通路から鳴った。
あの鈴の音は、私の背中を一瞬で冷やす。眠り、声、居場所――全部を狙ってきた音。
カイゼルの指が私の指を絡め直す。
返事。ここだ。
「行くな」
カイゼルが低く言う。
「行きません。……でも見ます」
「二人で」
「はい」
私たちは灯りを持って、祭壇の裏へ向かった。走らない。焦らない。
曲がり角の前で、灯りを一度上げる。
視線を揃える。
呼吸を揃える。
通路の先に、黒いローブの影が立っていた。
この国の神殿の紋を身につけているのに、目だけが冷たい。
手には短い刃――首もとの印を切るための、鋭い光。
「……やっぱり来た」
影が笑う。
「帰り道なんて、甘いものを持つから。切ればいい。ひとりになれば、また言うことを聞く」
私は息を吸って、吐いた。
刃を見ると体が固くなりそうになる。でも、怖さを隠さない。
「切っても、ひとりにはなりません」
私が言うと、影が鼻で笑う。
「皇帝がずっと隣にいるとでも?」
その瞬間、カイゼルが一歩だけ前に出た。
怒鳴らない。追いかけない。
ただ、私と影の間に立つ。
「いる」
掠れた声なのに、はっきり。
「必要なら、いつでも」
影の目が細くなる。
「皇帝のくせに、そんな――」
「皇帝だからだ」
カイゼルは言い切った。
「守る。……彼女の帰り道を」
刃が、すっと上がる。
影は突っ込んでこない。近づけない。灯りの列と、騎士たちの位置が、道を消しているからだ。
ローガンの低い声が背後から聞こえた。
「逃げ道、塞いだ。……切らせねぇ」
影は苛立ったように舌打ちし、刃を祭壇の石に当てた。
キィ、と嫌な音。
そして、刃先で床に文字を刻む。
『帰り道は、罪だ』
私はその文字を見て、胸の奥がひやりとした。
罪。
この国の言葉で“罪”と言われると、心が勝手に縮む。昔、私はそれで追放された。
でも今は違う。
私は首もとの印を握り、息を吸って吐いた。
「罪じゃない」
私は言った。
「帰り道は、戻るために必要です。戻ったら、また守れる。――それが“生きる”です」
影の手が一瞬止まる。
その隙に、若い神官が震える声で言った。
「……やめてください!」
影が振り向く。
「黙れ」
その瞬間、カイゼルの指が私の指を強く絡めた。
合図。今だ。
ローガンとフィンが左右から進み、影の腕を――“押さえつけずに”止めた。刃が床に落ちる。金属音が響く。
影は膝をつき、悔しそうに息を吐いた。
「……切れないのか」
呟きは、怒りというより絶望に近い。
私は一歩だけ近づき、刃には触れない距離で言った。
「切ると言ったのは、怖いから?」
影の肩が震える。
「……怖いんだよ」
かすれた声が漏れた。
「戻られたら、ばれる。眠れない国を作ったことが――」
元婚約者が息を呑んだ。
「お前……誰に命令された」
影は唇を噛み、視線を逸らした。
その瞬間、廊下の奥で、もう一度だけ鈴が鳴った。
ちりん。
――まだ終わっていない。
カイゼルが私の手を離さずに、低く言った。
「印は切らせない。……そして今度こそ、根を切る」




