第60話 外せない帰り道
『その印を外せば、ひとりになれる』
黒い札を握った指先が冷えた。首もとの印に触れると、金属はひやりとして――すぐ、胸の奥にあたたかさが戻る。帰り道。約束。迎えに来る手。
神殿の空気は、香の煙でうっすら白い。眠りを遠ざける、冷たい匂い。私は口でゆっくり息を吐いた。吸わない。焦らない。
「……その印は、神殿に相応しくない」
穏やかな顔の神官が、私の首もとを見て言った。
「外しなさい。ここでは“余計な結びつき”は禁忌です」
胸がきゅっと縮む。けれど私は、目を逸らさなかった。
「これは鎖じゃありません」
掠れた声でも、言い切る。
「私が戻るための目印です。誰かに連れていかれないための――帰り道」
神官の指が伸びた。触れようとした、その瞬間。
「触れるな」
低い声。カイゼルの手が、私の前に静かに入った。押し返さない。ただ、届かせない。
神官が眉をひそめる。
「隣国の陛下が、神殿で威圧を?」
「威圧ではない」
カイゼルは揺れない。
「彼女を揺らす言葉を、止めているだけだ」
私は首もとの印を握りしめ、喉の奥で名前を呼んだ。
「……カイゼル」
「ここだ」
返事の代わりに、指先が絡む。ほどけない。
背後で、元婚約者が小さく息を吐いた。
「……昔の俺なら、外せと言った」
自嘲みたいな声。
「縛れば守れると、勘違いしてた」
私はゆっくり息をして、言った。
「だから今、選びます。外さない。ここで、息を取り戻させる」
香炉の煙を指さし、私は声を落とす。
「扉を開けて。窓を開けて。風を通して」
誰かが動き、重い扉がきしむ音を立てた。冷たい外気が流れ込む。匂いが薄まって、神殿の空が少し明るくなる。
若い神官が、震える手で袋を差し出した。
「……これが混ぜものです。命令だって……言われて……」
「もういい」
私は袋を布に包み、窓の近くへ置いた。
「怖いなら、怖いって言っていい。言えたら、戻れる」
風がもう一度通ったとき、奥の控え室から小さな吐息が聞こえた。門番の呼吸が、少しだけ深くなった合図だ。
その瞬間、足元にもう一枚、黒い札が滑り込んだ。
『外さないなら、切る』
私は札を拾い、息を吸って吐いた。怖さが胸を叩く。
でも、手はほどけない。
カイゼルの手が、私の首もとをそっと覆う。印を隠すんじゃない。守るために、包む。
「切らせない」
低い声が、灯りみたいに落ちた。
私は頷いた。
「はい。……帰り道は、奪わせません」
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