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第59話 祈りの布の匂い

 控室の窓から入る風が、衛兵の浅い呼吸を少しずつ整えていった。

 私は彼の襟元の布切れ――祈りの文みたいな印を指でなぞり、すぐ手を離す。触り続けると、匂いに引っ張られる気がした。


「それ、神殿で配られてる」

 元婚約者が低く言った。

「門番だけじゃない。城の中にも……付けてる奴がいる」


 カイゼルの手が、私の手に触れた。

 返事みたいに、ほどけない温度。私は息を吸って吐き、うなずく。


「案内してください。布の出どころを見たい」

「……分かった」


 神殿へ向かう道は、石畳が冷たく、空気がやけに静かだった。

 建物が見えた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。ここは“祈り”の場所のはずなのに、怖さが先に立つ。


 扉をくぐると、香の匂いがふわりとまとわりついた。甘い香りじゃない。冷たくて、頭が冴えるような匂い。

(眠れない匂い……)


 私は無意識に息を吸いそうになって、口でゆっくり吐く。

 カイゼルが私の指をきゅっと握った。戻ってこい、の合図。


 奥から現れた神官は、丁寧に頭を下げた。

「お戻りになったのですね、令嬢。……それに、隣国の陛下まで」

 視線が、私の首もとの印に吸い寄せられる。ほんの一瞬だけ、眉が動いた。


「門番が倒れた」

 元婚約者が先に言う。

「この布の印、原因に関係がある」


 神官は穏やかな笑みを崩さない。

「それは守りの印です。夜に怯える者のために……」


「守りは、眠りを奪いません」

 私が静かに言うと、神官の笑みがほんの少し固くなった。


 私は祭壇の前の香炉を見た。煙が細く上がっている。匂いの元はここだ。

 近づきすぎない距離で、指先で空を切るように示す。


「この香、何を混ぜていますか」

「祈りに必要なものです」

「必要なのは、安心です」

 私は息を整えたまま続ける。

「この匂いは、心を落ち着かせるふりをして、眠りを遠ざける。門番だけじゃなく、国中の息が浅くなる」


 神官の目が揺れた。

 その瞬間、背後の影が動く。白い布の端が、柱の陰で一瞬だけ揺れた。


 カイゼルの声が低く落ちる。

「そこだ」

 でも追わない。足音は増えない。

 灯りを持つ騎士たちが、静かに位置を変えるだけで、出口へ続く道を塞ぐ。


 柱の陰から、ひとりの若い神官が顔を出した。手には小さな袋。匂いがそこから漏れている。

 彼は唇を震わせ、私を見た。


「……これは、命令で……」

 元婚約者が息を呑む。

「誰の命令だ」


 若い神官は視線を落とし、かすれた声で言った。

「“眠れない国を作れ”と。……眠れない者は、祈りに縋るから。従うから」


 胸の奥が冷える。

 黒いローブの男が言っていた言葉と同じ匂いがする。


 私は首もとの印に指を置いて、ゆっくり吐いた。

「眠れない国は、守れない。……帰ってこられる場所を作らなきゃ」


 カイゼルが、私の隣で短く言う。

「作る」

 そして、私の指をほどかない。


 そのとき、床をすべる音。

 黒い札が、私の足元に止まった。


『その印を外せば、ひとりになれる』


 私は札を拾い、息を吸って吐く。

 怖さはある。けれど、手はほどけない。


 指を絡めたまま、私は言った。

「外しません。……帰り道を、奪わせない」


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