第58話 眠れない門番
衛兵は石畳に座らされた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。目は開いているのに焦点が合わない。胸が浅く上下して、息がどこにも落ち着かない。
「大丈夫。いまは吸おうとしなくていい。ゆっくり吐いて」
私は声を低くして、彼の背に手を当てる。触れるだけで、冷たい汗が指に伝わった。
元婚約者が苛立ったように言う。
「だから戻るなと言ったんだ。ここは……こういうのが増えてる」
その言い方は乱暴なのに、目だけが不安で揺れている。
「増えてるなら、なおさら見ます」
私は息を整えてから、衛兵の襟元をそっと覗いた。
そこに、小さな布の切れ端が縫いつけられていた。祈りの文みたいな印。見覚えがある。礼拝堂で見た、あの“きれいな形”の印だ。
「……神殿」
思わず漏れた声に、衛兵のまぶたがぴくりと動く。
背後で、カイゼルの気配が前に出る。
「門の中へ運べ。風の通る場所だ」
掠れていても、命令の刃がない。守るための短さだけがある。
私たちは近くの控室へ衛兵を移した。窓を開けると冷たい空気が流れ、衛兵の息が少しだけ深くなる。私は首もとの印に触れ、指先の震えを落ち着かせた。
「……リュシア」
カイゼルが小さく呼ぶ。
「ここにいます」
返事をしたら、指が絡む。ほどけない。
元婚約者が扉のそばで言った。
「神殿の奥で、夜ごと“祈り”が増えた。眠れないのは弱い、って……昔みたいな言葉が戻ってきた」
「言葉で縛るのは、楽ですから」
私は衛兵の手を軽く握り返しながら答えた。
「怖い人ほど、強い言葉を借りたがる」
元婚約者は唇を噛み、私を見た。
「お前が来たら、また狙われる」
「狙われても、ひとりじゃない」
そう言った瞬間、カイゼルの手が私の手を包み直した。隣に立て、という言葉のまま。
「彼女に触れるな」
カイゼルが門の方へ視線を投げる。衛兵たちが息を呑み、道を空けた。
「ここで彼女を揺らすなら、私が先に立つ」
元婚約者の顔が歪む。悔しさと、救われたみたいな複雑な表情。
「……勝手に強くなるなよ」
私は衛兵の呼吸が落ち着いたのを確かめ、立ち上がった。
「案内してください。眠れない原因を探します。匂いでも、鈴でも、言葉でも。――奪わせない方法は、もう知ってる」
首もとの印が、ひやりとしたあと、すぐ温かくなる。
帰り道は、ここにもある。隣に来た手が、それを思い出させてくれた。




