第57話 戻るなと言った人
門が開いた瞬間、懐かしい石畳の匂いがした。胸の奥がきゅっと縮んで、息が浅くなる。
首もとの印に指が触れた。冷たいはずなのに、いまは不思議とあたたかい。
「止まれ」
甲冑の男が前に出て、道をふさいだ。視線は私に刺さり、次に隣の人へ移る。
「ここより先は――」
言い切る前に、隣で低い声が落ちた。
「通る」
カイゼルは私を背に隠さない。隣に立たせたまま、動かない。怒鳴らない。ただ、揺れない。
甲冑の男が喉を鳴らす。
「……その方は追放された身。お戻りいただくとしても、おひとりで」
私は一歩だけ引きそうになって、指先がほどけかけた。
その瞬間、カイゼルの手が私の指を絡め直す。返事。ここだ、の合図。
そして、聞こえた。
「……戻るな」
背後から落ちた声は、私が知っている声だった。
振り向くと、そこに立っていたのは――元婚約者。昔はまっすぐだった背が、いまは少しだけ丸い。目の下に濃い影。唇は乾き、顔色も良くない。
私の喉がきゅっと鳴って、声が出ない。
代わりに、私は息を吸って、ゆっくり吐いた。怖いまま、戻る。
「……なぜ」
やっと絞り出した声に、彼は顔をしかめた。
「お前はここに来るな」
強い言い方なのに、目だけが揺れていた。怒りじゃない。焦りの目。
カイゼルが一歩前へ出る気配がして、私は指を絡めたまま、首を横に振った。
焦らない。いまは、話を聞く。
「あなたが、手紙を?」
私が聞くと、元婚約者は唇を噛んでから、苦しそうに言った。
「違う。……俺の印は、勝手に使われた」
「戻れと言ったり、戻るなと言ったり……」
「迷わせるためだ。お前を、ひとりにするためだ」
甲冑の男が不快そうに咳払いした。
「私語は――」
「黙れ」
カイゼルの声は低く、短く、冷たい。
でも私には分かった。怒りで壊す声じゃない。私の居場所を守るための声だ。
元婚約者は視線を落として、かすれた声で続けた。
「中が……おかしい。眠れない者が増えてる。理由も分からず、倒れる。……お前が来たら、また利用される」
その言葉で、胸の奥の怖さが形を変えた。
怖い。けれど、逃げたくない。私はもう、勝手に追い出される側じゃない。
首もとの印を握って、私は言った。
「私は、選びます」
元婚約者の目が揺れる。
「……やめろ」
「やめない」
私は隣を見上げた。
「カイゼル」
「ここだ」
返事が落ちて、指がほどけないまま、私は前を向いた。
「私は医師です。困っている人がいるなら、見て見ぬふりはできない」
言い切った瞬間、少しだけ喉が痛んだ。でも息はできる。
そのとき、門の内側で若い衛兵がふらりと揺れた。顔色が白く、目が焦点を結ばない。
私は反射で駆け寄りそうになって、足を止める。走らない。まず息。
「座って」
私は静かに言って、衛兵の肩をそっと支えた。
冷たい汗。浅い呼吸。眠れていない匂いがする。
背後で、元婚約者が小さく呟いた。
「……だから戻るなって言ったのに」
その声は、私を追い払う声じゃなかった。守りたくて、守れなくて、歪んだ声だった。
私は衛兵の手を握り、指先で合図を送る。
「大丈夫。戻ってこられる。息をして」
カイゼルの手が、私の背にそっと触れた。
隣に立つ影が、私をひとりにしない。
この国の中にも、眠りを奪う何かがある。
――でも私はもう、“戻るな”で止まらない。




