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第56話 隣で行く

 「私が行く」と言ったカイゼルの声が、まだ耳に残っていた。

 私は手紙を机に伏せ、首もとの印に触れる。冷たい金属が、すぐに温度を変える気がした。


「本当に、来るんですか」

 喉を押さえながら尋ねると、カイゼルは迷いなく頷いた。

「行く。お前が向き合うなら、私も向き合う」

「皇帝が動いたら、騒ぎになります」

「騒ぎにさせない」

 短い言葉。けれど“守るための短さ”だった。


 ローガンが腕を組んで言う。

「先生、怖い顔してる」

「してない」

「してる」

 横からマルタが手を差し出した。

「準備。温かいもの。のどに優しいもの。……あなた、忘れるでしょ」

「忘れないよ」

「忘れる」


 フィンが小さく笑い、すぐ真面目な顔になった。

「先生、俺たちも行く。……一人にしない」

 その言葉に、胸がじんとした。ここはもう、私の居場所だ。


 出発の前、カイゼルは私の前に立ち、外套をそっと肩にかけた。

「寒いだろ」

「大丈夫です」

「大丈夫は禁止」

 言い切ってから、少し声を落とす。

「……怖いなら、言え」


 私は息を吸って、ゆっくり吐いた。

「怖いです。でも、逃げたくない」

「分かった」

 返事の代わりに、カイゼルの指が私の指を絡めた。


 馬車の中は、風が通るように小さく窓が開いていた。蜂蜜湯の匂いがふわりとする。誰が用意したのか、答えは分かっていた。

「……飲め」

「陛下も」

「……うん」


 揺れの合間、カイゼルがぽつりと言った。

「お前の国に着いたら、私の後ろに隠れるな」

「え」

「隣に立て」

 不器用な命令みたいで、でもそれは“ひとりにしない”の言い方だった。


 国境が見えた。高い門。見慣れた紋章。胸がきゅっと縮む。

 その瞬間、首もとの印が指先に当たり、私は呼吸を思い出す。


「リュシア」

 カイゼルが名前を呼ぶ。

「ここにいます」

 返事をしたら、手がほどけないことに気づいた。


 門がきい、と開く。

 向こう側で、誰かがこちらを見ている気配。

 そして、聞こえるか聞こえないかの声が落ちた。


「……戻るな」


 私は足を止めかけて、指先を絡め直した。

 怖さにほどかれないように。

 隣にいる手を、離さないために。

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