第47話 呼び名が、ほどく
白いフードの下から現れた神官は、肩を震わせたまま立ち尽くしていた。
ローガンもフィンも距離を保ち、道だけを塞いでいる。押さえつけない。怖がらせない。――今は、それがいちばん効く。
私は窓に近い小部屋へ神官を案内した。扉は閉めきらず、風が通るようにする。
蜂蜜湯を差し出すと、神官は指先でカップを掴んで、泣くみたいに息を吐いた。
「……わたし、間違ってた」
声が震えている。優しい声の形をしているのに、今はやっと“本当の怖さ”が混じっていた。
「間違いに気づけたなら、戻れます」
私はそう言って、自分も深く息をした。相手の呼吸が落ち着くと、こちらの心もほどける。
カイゼルは部屋の入口に立ったまま、神官を見ている。冷たい目……だけど、怒りで燃えてはいない。
そして私の手を、指先でそっと掴んだ。返事の代わりみたいに。
「あなたは誰に、そんなことを教わったの?」
私が尋ねると、神官は唇を噛んで俯いた。
「……神殿の奥の人」
「名前は」
「言ったら……わたしは、もう戻れない気がする」
カイゼルの手がわずかに強くなる。私はその力に、首を横に振って返す。
今、怖がらせたら、また誰かの言葉に縛られる。
「戻れます」
私は神官の目を見た。
「怖いときは、怖いって言っていい。言えたら、息ができる。息ができたら、戻ってこられる」
神官の瞳から、涙が落ちた。
「……“眠る皇帝は弱い”って言われたの」
「違う」
カイゼルの声が低く落ちる。掠れているのに、よく届いた。
「眠る皇帝は、戻ってくる」
神官は顔を上げ、震える声で言った。
「あなたが……返事をしたから……わたし、怖くなった。怖くなって、やっと分かった。奪ってたのは……眠りじゃなくて、人の安心だった」
私はカップの縁を指でなぞってから、静かに言った。
「安心は、奪うものじゃない。――もらうものでもない。作るものです。一緒に」
カイゼルが私のほうを見た。
「リュシア」
名前を呼ばれただけで、胸があたたかくなる。私は小さく頷いた。
「はい。ここにいます」
神官が顔を覆い、嗚咽をこらえる。
その肩が少し落ちたとき、部屋の隙間風が、かすかな残り香をさらっていった気がした。
――その瞬間、足元へ紙が滑り込んだ。黒い札。
『返事は奪えない。なら次は、“居場所”だ』
私は札を握りしめ、息を吸って吐いた。
カイゼルの指が、私の指を絡める。ほどけない返事。
「居場所は奪わせない」
カイゼルが言う。
私は頷いて、同じ答えを返した。
「はい。……私たちは、ここにいる」




