第46話 返事は、奪わせない
夜の前室は静かだった。風は通してある。甘い匂いも、冷たい匂いも、今はない。
それなのに、胸の奥が少しだけざわつく。――静かな夜ほど、相手は“言葉”を狙ってくる。
カイゼルは寝台の端に座り、喉に手を当てたまま私を見た。声は掠れている。
私は蜂蜜湯を差し出し、指先で合図を作る。きゅっと握れば「ここ」。握り返せば「大丈夫」。
「……呼べ」
「……カイゼル」
返事の代わりに、指が絡む。強くないのに、ほどけない。
そのとき、扉の外で布が擦れる音がした。
見張りの気配。ローガンが廊下の陰から顔だけ出し、口は動かさずに手のひらを上げた。――“止まれ”の合図。
次に、白い紙が床をすべってくる。
『返事を奪えたら、勝ちだと思うか』
私は紙を拾い、息を吸ってゆっくり吐いた。
挑発だ。怒らせたい。焦らせたい。だから、落ち着く。
「勝ち負けじゃない」
私は小さく言った。
「返事は、奪うものじゃない。……選ぶものです」
カイゼルの指が、きゅっと私の手を確かめる。
私はその手を握り返し、扉へ目を向けて“窓”の形を描いた。マルタがすぐに窓を開ける。冷たい風が走った。
廊下の角に、白い影がにじむ。杖の先が光り、鈴が鳴りそうで鳴らない。
影は、こちらの様子を見ている。――“声が出ない皇帝”を、怖がらせたい目。
私は前へ出ない。代わりに、カイゼルの手をそっと引いて立たせた。
逃げるためじゃない。見せるためだ。
影が一歩近づいた瞬間、ローガンとフィンが左右に立つ。追わない。塞ぐだけ。
影が止まる。止まらざるを得ない。
「……返事ができないなら」
優しい声が落ちた。安心する形をした、冷たい声。
「皇帝じゃないわ」
私は喉に手を当て、息を整えてから言った。
「皇帝かどうかを決めるのは、あなたじゃない」
影の肩が揺れた。鈴が鳴りかける。
その瞬間、カイゼルが一歩だけ前に出て、杖を持つ手を静かに押さえた。力じゃない。逃げ道を消す動き。
そして――掠れた声で、でもはっきり言った。
「私は……返事をする」
空気が止まる。
カイゼルは私の方を見て、指先をほどかずに続けた。
「リュシア」
胸の奥が熱くなる。
返事を奪うつもりだった相手は、言葉を失ったみたいに固まった。
ローガンが低く言う。
「終わりだ。……もう鳴らすな」
白い影が震え、フードが落ちる。そこにいたのは、礼拝堂で見かけた神官だった。目は潤んでいるのに、口元だけ笑おうとしている。
私は一歩だけ近づき、でも匂いを吸わない距離で言った。
「怖いなら、怖いって言えばよかった」
「……怖かったのよ」
神官の声が揺れる。
「眠ったら、また奪われる気がして……!」
「だからこそ眠るんです」
私は静かに返した。
「眠って、戻ってくる。戻ってきたら、手はほどけない」
カイゼルの指が、もう一度きゅっと絡む。
それが、言葉より確かな返事だった。




