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第44話 返事を奪う匂い

『その名を呼ぶなら、次は“返事”を奪う』


 白い紙を握りしめたまま、私はしばらく動けなかった。

 返事――それはカイゼルの声。私の合図。私たちの“戻ってくる場所”。


 でも、怖いときほど息だ。

 私は鼻で吸って、口でゆっくり吐いた。


「……奪わせない」

 カイゼルの声は低く、揺れない。

 その返事があるだけで、胸の奥が少し落ち着く。


 翌日。

 私たちは“返事を奪う”やり方を想像して、先に守り方を作った。


 声が出ないなら、手。

 返事ができないなら、目。

 呼ばれたら、指を握る。肩に触れる。白いリボンを叩く。――言葉がなくても、伝わる形。


 カイゼルは渋い顔でそれを覚えた。

「皇帝が、合図で返事など」

「皇帝でも患者です」

「……分かった」

 頷くのが早い。慣れてきてる。


 夜。前室の窓を少し開け、風を通す。

 カイゼルは寝台の端に座って、私の手を取った。


「呼べ」

「はい。……カイゼル」


 カイゼルは、返事の代わりに私の指をきゅっと握った。

 それだけで、ちゃんと“ここだ”が伝わる。私は頷いた。


 静かになったころ、廊下の奥で――ふわり。

 甘い匂いとは違う。冷たくて、舌が少し痺れるような匂い。


(来た……声を奪う匂い)


 私は口で短く息を吐く。吸わない。窓の形を手で描く。

 マルタがすぐに窓を大きく開け、冷たい風が一気に通った。


 けれど匂いは、しつこく残る。布に染みこむみたいに。


 カイゼルが眉を寄せ、喉に手を当てた。

「……っ」

 声が出ない。咳が出そうで出ない。苦しそうに息を探している。


「大丈夫、息」

 私は小声で言い、カイゼルの背に手を当てた。

 鼻で吸って、口で吐く。私のリズムを押しつけないように、ゆっくり。


 廊下の向こうで、ちりん。

 高い鈴が鳴った。

 それに合わせるみたいに、匂いが一瞬濃くなる。


 カイゼルの目が私を見る。焦りが混じる。

 ――返事ができない。呼べない。だから怖い。


 私はカイゼルの手を取り、指を一本だけ立てた。“大丈夫”。

 次に、白いリボンを指で叩く。コン、コン。

 合図が返る。コン、コン。


 ローガンの声が廊下の向こうから聞こえた。

「先生、匂い袋を見つけた。窓の外へ運ぶ」

 追っていない。ちゃんと“処理”してる。えらい。


 カイゼルはまだ声が出ないまま、私の手を強く握った。

 返事の代わりに、握り返してくる。

 それが、返事だ。


 私は喉を押さえながら、あえて優しく笑った。

「返事、できてます」

 カイゼルの眉が少しだけ動く。悔しいのか、安心したのか。


 匂いが風に流れ、薄れていく。

 やっと、カイゼルの唇が動いた。


「……リゅ……」

 かすれた声。

 私はすぐ顔を近づける。


「聞こえた。ここにいます」

 カイゼルは息を吐いて、やっと言葉を形にした。


「……行くな」

 その一言が、いちばん甘くて、いちばん苦しい。


 私は頷いて、指を絡めた。

「行かない。……返事は奪わせません」


 廊下の奥で、鈴がもう一度だけ鳴った。

 でも今夜、奪われたのは返事じゃない。

 ――敵のほうの余裕だった。

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