表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/139

第43話 合図は、名前

 朝、窓を開けると冷たい空気がすっと入ってきた。昨夜の甘い残り香が、ようやく薄れる。

 私は机の上の白い手袋を見下ろした。指先に月蜜花の粉。置き土産にしては、わざとらしい。


「触るな」

 背後からカイゼルの声。いつもより低い。

「触らない。布の上から見るだけ」


 布で包んだまま、手袋の内側をそっと覗く。そこに、細い糸の刺しゅうがあった。祈りの文みたいに見える、小さな印。

 マルタが息を呑む。


「……礼拝堂の人が使う印だ」

 ローガンが顔をしかめた。

「まだ終わってねぇってことかよ」


 カイゼルは黙って、私の手に別の手袋を乗せた。新しい、温かい布のもの。

「これを使え」

「陛下、また勝手に」

「勝手ではない。……お前の手が冷たいのは、嫌だ」


 言い方が不器用で、真剣で、ずるい。私は喉を押さえて小さく笑った。

「ありがとうございます」


 昼のうち、私たちは礼拝堂の裏の通り道をもう一度確かめた。風が通る場所、影が隠れやすい角、音が響く壁。

 私は白いリボンを指で弾き、皆に目で伝える合図を確認する。声が出せなくても動けるように。――でも、今日はもう一つ足した。


 カイゼルの前で、私は短く言った。

「合図は、名前にします」

「……名前?」

「鈴や匂いに負けそうになったら、呼ぶ。呼ばれたら、戻る。いちばん強い“現実の合図”だから」


 カイゼルの喉が小さく動く。

「私の名前を?」

「はい。……嫌ならやめます」

「嫌ではない」

 即答だった。

 それから少し間を置いて、低い声で続ける。

「……むしろ、そうしてくれ」


 夜。前室の灯りを落として、窓を少し開ける。蜂蜜湯を置き、布袋を手元に。

 カイゼルは寝台に入る前に、私の手を取った。強くないのに、ほどけない温度。


「今夜も、呼べ」

「はい。陛下も、呼んでくださいね」

「……呼ぶ」


 静かになったころ、遠くで小さく金属が触れる音がした。鈴じゃない。合図を迷わせるための、嫌な音。

 喉がひりっとして、声が引っ込みそうになる。


 私は息を吐いて、手を握り返した。

「……カイゼル」


 たったそれだけで、胸の奥の怖さが一段下がる。

 カイゼルの目が私を捉え、低く返ってくる。


「ここだ」


 次の瞬間、廊下の奥で影が揺れた。白い布。杖の先。

 でも、私は追わない。走らない。代わりに、もう一度だけ呼んだ。


「……カイゼル」


 影が、ぴたりと止まった。

 ――“名前”は、音や匂いより強い。奪いにくい。真似しにくい。


 そして、影は床へ白い紙を落として消えた。


『その名を呼ぶなら、次は“返事”を奪う』


 私は紙を握りしめ、息を吸ってゆっくり吐いた。

 返事を奪う? ――つまり、カイゼルの声を。


 私の手を握る力が、ほんの少し強くなる。

 カイゼルが低く言った。


「奪わせない」

 その言葉が、今夜のいちばん確かな返事だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ