第43話 合図は、名前
朝、窓を開けると冷たい空気がすっと入ってきた。昨夜の甘い残り香が、ようやく薄れる。
私は机の上の白い手袋を見下ろした。指先に月蜜花の粉。置き土産にしては、わざとらしい。
「触るな」
背後からカイゼルの声。いつもより低い。
「触らない。布の上から見るだけ」
布で包んだまま、手袋の内側をそっと覗く。そこに、細い糸の刺しゅうがあった。祈りの文みたいに見える、小さな印。
マルタが息を呑む。
「……礼拝堂の人が使う印だ」
ローガンが顔をしかめた。
「まだ終わってねぇってことかよ」
カイゼルは黙って、私の手に別の手袋を乗せた。新しい、温かい布のもの。
「これを使え」
「陛下、また勝手に」
「勝手ではない。……お前の手が冷たいのは、嫌だ」
言い方が不器用で、真剣で、ずるい。私は喉を押さえて小さく笑った。
「ありがとうございます」
昼のうち、私たちは礼拝堂の裏の通り道をもう一度確かめた。風が通る場所、影が隠れやすい角、音が響く壁。
私は白いリボンを指で弾き、皆に目で伝える合図を確認する。声が出せなくても動けるように。――でも、今日はもう一つ足した。
カイゼルの前で、私は短く言った。
「合図は、名前にします」
「……名前?」
「鈴や匂いに負けそうになったら、呼ぶ。呼ばれたら、戻る。いちばん強い“現実の合図”だから」
カイゼルの喉が小さく動く。
「私の名前を?」
「はい。……嫌ならやめます」
「嫌ではない」
即答だった。
それから少し間を置いて、低い声で続ける。
「……むしろ、そうしてくれ」
夜。前室の灯りを落として、窓を少し開ける。蜂蜜湯を置き、布袋を手元に。
カイゼルは寝台に入る前に、私の手を取った。強くないのに、ほどけない温度。
「今夜も、呼べ」
「はい。陛下も、呼んでくださいね」
「……呼ぶ」
静かになったころ、遠くで小さく金属が触れる音がした。鈴じゃない。合図を迷わせるための、嫌な音。
喉がひりっとして、声が引っ込みそうになる。
私は息を吐いて、手を握り返した。
「……カイゼル」
たったそれだけで、胸の奥の怖さが一段下がる。
カイゼルの目が私を捉え、低く返ってくる。
「ここだ」
次の瞬間、廊下の奥で影が揺れた。白い布。杖の先。
でも、私は追わない。走らない。代わりに、もう一度だけ呼んだ。
「……カイゼル」
影が、ぴたりと止まった。
――“名前”は、音や匂いより強い。奪いにくい。真似しにくい。
そして、影は床へ白い紙を落として消えた。
『その名を呼ぶなら、次は“返事”を奪う』
私は紙を握りしめ、息を吸ってゆっくり吐いた。
返事を奪う? ――つまり、カイゼルの声を。
私の手を握る力が、ほんの少し強くなる。
カイゼルが低く言った。
「奪わせない」
その言葉が、今夜のいちばん確かな返事だった。




