第42話 手をほどくのは、怖さ
月蜜花の箱は、風を通してから外へ運ばれた。
甘い匂いが残らないように、窓を開けて、布で包んで、触れる人を増やさない。――いつも通りの動き。いつも通りの呼吸。
でも、白い紙の言葉だけは、指先に残っていた。
『ほどけない手は、夜にほどく』
私は喉に手を当て、息を吸ってゆっくり吐いた。
怖いのは、手をほどかれることじゃない。
“怖くなって、離れてしまうこと”だ。
夕方。前室の灯りを落とし、窓を少し開けて風を通す。
机の上には蜂蜜湯、弱い薬草の布袋、白いリボン。目で伝える合図も忘れない。
カイゼルは寝台の端に座って、私を見ている。
昨夜より、目が硬い。
「陛下、呼吸」
「……分かっている」
言いながら、ちゃんと息を吐く。
その手が、私の手首を探すみたいに伸びてきて、指先が触れる。
「……離すな」
小さな声。命令の形なのに、お願いの温度。
「離しません」
私はうなずいて、カイゼルの手に自分から触れた。
そのとき、廊下の奥で――コン、コン。
二回。合図。誰かが気配を感じた。
次の瞬間、前室の窓がふっと曇った。
外から、白い影が見える。布の端が揺れ、杖の先がわずかに光った。
ちりん。
高い鈴。
喉がひりっとした。声が引っ込む感じ。
私はすぐ口で短く息を吐き、手で“窓”の形を描く。マルタがさらに窓を開け、冷たい風が一気に流れ込む。
影は一瞬だけ揺らいだ。風が嫌だ。
私は手のひらを上げる。“止まれ”。
ローガンとフィンが廊下へ出る気配。追わない。塞ぐだけ。
しかし影は、逃げなかった。
代わりに、窓の外から細い声が落ちてくる。優しい声。安心する形をした、怖い声。
「仲良しごっこは、夜にほどけるわ」
その瞬間、カイゼルの手が少しだけ強く私の手首を掴んだ。
怖いのは、影じゃない。言葉に揺れること。
私は喉に手を当て、息を整えてから、はっきり言った。
「ほどけるのは手じゃない。怖さです」
声が出た。掠れているけど、届く声。
カイゼルの目が一瞬だけ揺れる。驚いたのか、安心したのか分からない顔。
窓の外の影が、わずかに沈黙した。
「……怖さ?」
「怖いから、離そうとする。怖いから、眠れなくなる。――あなたがやってるのは、それを増やすこと」
影がくすりと笑う気配。
「怖くない人なんていないわ」
「だから息をするんです」
私は言い切った。
「息をして、戻ってくる。戻ってきたら、手はほどけない」
カイゼルが低い声で言う。
「聞いたか。……ほどけない」
その言葉は、相手に向けたというより、自分自身に言い聞かせるみたいだった。
次の瞬間、窓枠に小さなものが当たった。ころん、と軽い音。
落ちたのは――白い手袋の片方。指先に月蜜花の粉。
「置き土産か……」
ローガンの声が廊下の向こうから聞こえる。追っていない。ちゃんと塞いでいる。
私は手袋を布で包み、窓の外へ視線を戻す。影はもういない。
鈴の音も、消えていた。
静かになった前室で、カイゼルが私の手首をそっと引き寄せた。
さっきより弱い力。怖さが落ち着いた証拠みたいに。
「……今の声」
「出ました」
「……よかった」
たったそれだけで、胸があたたかくなる。
私は笑って、蜂蜜湯を差し出す。
「陛下も飲んで。……寝るために」
「……ああ」
夜にほどくと言われた手は、ほどけなかった。
ほどけたのは、ほんの少しだけの怖さ。
そして私は思った。――この人は、守るだけじゃなく、守られることを少しずつ覚えている。




