第37話 蜂蜜湯係の皇帝
医務棟の廊下は、朝より少しだけ軽かった。
あの人――ガレインの部屋の扉が閉まったから、というより、みんなの息がやっと戻ってきたからだと思う。
私は喉を押さえながら椅子に座る。声は、まだ掠れている。でも、痛みは引いてきた。
そこへ、静かな足音。
「……飲め」
差し出されたのは、湯気の立つカップ。蜂蜜の甘い匂い。
皇帝カイゼルが、自分の手で持ってきていた。
「陛下、ここに来ちゃだめ――」
言いかけて、声がひゅっと切れた。私は悔しくて眉を寄せる。
カイゼルは、怒らずに言った。
「しゃべるな。……飲め」
「……はい」
少しずつ口に含むと、喉がじんわり温まる。
私は目だけで「ありがとう」を言ったつもりだったのに、カイゼルはなぜか視線を逸らして、外套の襟を指で直した。
「……誰に習ったんですか、蜂蜜湯」
やっと出た小さな声に、自分でびっくりする。
カイゼルも、ほんの一瞬だけ目を丸くした。
「……お前だ」
「え」
「お前が、そうしろと言った」
それが嬉しくて、私は笑ってしまう。掠れた声で、でもちゃんと次の言葉を繋いだ。
「じゃあ、陛下も守ってください。……休むの」
「……分かっている」
その返事は短いのに、どこか拗ねている。
私は首を傾げる。
「陛下、怒ってます?」
「怒っていない」
「じゃあ、なんでそんな顔」
カイゼルは少し黙ってから、ぽつりと言った。
「……お前が痛そうなのが、嫌だ」
胸の奥が、ふっと熱くなる。
私は誤魔化すようにカップを持ち上げた。
「……蜂蜜湯係、優秀ですね」
「係ではない」
「じゃあ、何ですか」
カイゼルは答えに詰まって、視線を逸らしたまま言う。
「……必要だと思った」
「誰に?」
「私に」
その言い方がずるい。押しつけじゃなくて、お願いに近い。
私は喉を押さえながら、少しだけ真面目に言った。
「……カイゼル」
名前が出た瞬間、カイゼルの肩がぴくっと動いた。
そして、咳払いをひとつ。
「……今のは、聞こえた」
「聞こえました?」
「聞こえた。……もう一度言うな」
言ってほしいくせに。
私は笑いをこらえて頷いた。
廊下の向こうで、ローガンとフィンが顔を出して、目だけでニヤついた。
カイゼルが鋭い視線を飛ばすと、二人とも一斉に咳払いして消える。……わかりやすい。
カイゼルは私の隣の椅子に座り、声を落とした。
「今夜は、医務室に泊まるな」
「え」
「お前は休む。……私の前室で。風も通る」
「それ、命令ですか」
カイゼルは一拍置いて、言い直した。
「……頼む」
その瞬間、胸の奥の不安が少しだけ小さくなった。
私はカップを両手で包んで、うなずく。
「はい。……その代わり、陛下も寝てください」
「……約束する」
蜂蜜の甘さが、喉より先に心に染みた。
奪われかけた声は、まだ弱い。けれど――今夜は、守られていい気がした。




