第36話 医長の引き出し
朝、喉の痛みは少しだけ軽くなっていた。声はまだ出ない。でも――息はできる。なら、今日も動ける。
皇帝カイゼルが前室で待っていた。私の顔を見るなり、短く言う。
「無理はするな」
私は親指を立てて、紙に書いた。
『昼に終わらせる。夜は眠る』
「……うん」皇帝が頷く。「その順番で行く」
医務棟へ向かう廊下は明るい。窓を先に開け、風を通す。匂いの罠に負けないための、いつもの準備。ローガンとマルタも一緒だ。ソールは青い顔のまま、でも自分の足で歩いていた。
宮廷医長ガレインの部屋の前で、皇帝が扉をノックする。
「入る」
返事を待たず、扉が開いた。
「陛下……! 何のご用件を」
ガレインは笑顔を作った。作りすぎて、目が笑っていない。
私は机を見た。香の瓶、粉の小箱、引き出しの鍵。――そして、机の隅に小さな鈴の金具。昨夜の“高い鈴”のしっぽと同じ形。
私は紙に大きく書き、机の上に置いた。
『これ、誰の?』
ガレインのまばたきが一瞬だけ遅れた。
「……何のことです。医療に鈴など」
皇帝が低く言う。
「嘘をつくな」
ソールが震えながら、一歩前に出た。
「医長……ぼくに、喉が痛くなる粉を混ぜろって……言いました……」
「口を慎め!」
ガレインの声が尖る。そこで私は、手のひらを上げた。“止まれ”。ローガンがすっと間に入る。怒鳴らない。押さえつけない。ただ、逃げ道を消すだけ。
私はソールの肩に軽く触れて、呼吸の合図を送る。ソールが鼻で吸って、口で吐く。少し落ち着いた。
皇帝が机の引き出しを指した。
「開けろ」
「神聖な医療の――」
「開けろ」
ガレインが渋々鍵を回す。引き出しの中から出てきたのは、白い手袋の予備、鈴の部品、甘い匂いの袋、そして“お願い”の紙束――『先生だけ来て』『助けて』の、あの文字。
ローガンが低く唸る。
「……これが“助けて”の正体かよ」
ガレインは笑って見せた。
「必要だったのです。陛下が眠れば危ない。だから、医者が――私が必要になる」
その言葉に、空気が凍る。私は息を吸って、ゆっくり吐いた。怒りで言葉を雑にしない。
私は紙に書いた。
『必要にされたいから、眠りを奪ったの?』
ガレインの笑みが歪む。
「理想論だ、産業医ごときが!」
皇帝の声が、氷みたいに落ちた。
「医者は“必要にされる”ために病を作らない」
私は窓の形を空に描いた。“風”。マルタが窓を大きく開け、冷たい空気が部屋を抜ける。甘い匂いが薄れる。ガレインの顔色が、少しだけ悪くなった。
皇帝が言う。
「ガレイン。お前はここまでだ」
それだけで十分だった。兵に命令する声じゃない。“線を引く”声だった。
部屋を出た廊下で、私は胸いっぱいに息を吸った。喉が少し楽になる。
皇帝が私の隣に立ち、低い声で言う。
「……言えるか」
私は頷き、唇を動かした。掠れた小さな音が、やっと形になる。
「……カ、イゼル……さま」
皇帝の目が一瞬だけ丸くなって、すぐにそっぽを向いた。
「……聞こえた」
それだけ言って、私の外套の襟を直す手が、いつもより少しだけ優しかった。
私は小さく笑って、喉を押さえながら思う。
(声も、眠りも、取り戻せる。――次は、もう誰も利用させない)




