表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/160

第36話 医長の引き出し

 朝、喉の痛みは少しだけ軽くなっていた。声はまだ出ない。でも――息はできる。なら、今日も動ける。


 皇帝カイゼルが前室で待っていた。私の顔を見るなり、短く言う。

「無理はするな」

 私は親指を立てて、紙に書いた。

『昼に終わらせる。夜は眠る』

「……うん」皇帝が頷く。「その順番で行く」


 医務棟へ向かう廊下は明るい。窓を先に開け、風を通す。匂いの罠に負けないための、いつもの準備。ローガンとマルタも一緒だ。ソールは青い顔のまま、でも自分の足で歩いていた。


 宮廷医長ガレインの部屋の前で、皇帝が扉をノックする。

「入る」

 返事を待たず、扉が開いた。


「陛下……! 何のご用件を」

 ガレインは笑顔を作った。作りすぎて、目が笑っていない。


 私は机を見た。香の瓶、粉の小箱、引き出しの鍵。――そして、机の隅に小さな鈴の金具。昨夜の“高い鈴”のしっぽと同じ形。


 私は紙に大きく書き、机の上に置いた。

『これ、誰の?』


 ガレインのまばたきが一瞬だけ遅れた。

「……何のことです。医療に鈴など」

 皇帝が低く言う。

「嘘をつくな」


 ソールが震えながら、一歩前に出た。

「医長……ぼくに、喉が痛くなる粉を混ぜろって……言いました……」

「口を慎め!」

 ガレインの声が尖る。そこで私は、手のひらを上げた。“止まれ”。ローガンがすっと間に入る。怒鳴らない。押さえつけない。ただ、逃げ道を消すだけ。


 私はソールの肩に軽く触れて、呼吸の合図を送る。ソールが鼻で吸って、口で吐く。少し落ち着いた。


 皇帝が机の引き出しを指した。

「開けろ」

「神聖な医療の――」

「開けろ」


 ガレインが渋々鍵を回す。引き出しの中から出てきたのは、白い手袋の予備、鈴の部品、甘い匂いの袋、そして“お願い”の紙束――『先生だけ来て』『助けて』の、あの文字。


 ローガンが低く唸る。

「……これが“助けて”の正体かよ」


 ガレインは笑って見せた。

「必要だったのです。陛下が眠れば危ない。だから、医者が――私が必要になる」

 その言葉に、空気が凍る。私は息を吸って、ゆっくり吐いた。怒りで言葉を雑にしない。


 私は紙に書いた。

『必要にされたいから、眠りを奪ったの?』


 ガレインの笑みが歪む。

「理想論だ、産業医ごときが!」

 皇帝の声が、氷みたいに落ちた。

「医者は“必要にされる”ために病を作らない」


 私は窓の形を空に描いた。“風”。マルタが窓を大きく開け、冷たい空気が部屋を抜ける。甘い匂いが薄れる。ガレインの顔色が、少しだけ悪くなった。


 皇帝が言う。

「ガレイン。お前はここまでだ」

 それだけで十分だった。兵に命令する声じゃない。“線を引く”声だった。


 部屋を出た廊下で、私は胸いっぱいに息を吸った。喉が少し楽になる。

 皇帝が私の隣に立ち、低い声で言う。

「……言えるか」

 私は頷き、唇を動かした。掠れた小さな音が、やっと形になる。


「……カ、イゼル……さま」

 皇帝の目が一瞬だけ丸くなって、すぐにそっぽを向いた。

「……聞こえた」

 それだけ言って、私の外套の襟を直す手が、いつもより少しだけ優しかった。


 私は小さく笑って、喉を押さえながら思う。

(声も、眠りも、取り戻せる。――次は、もう誰も利用させない)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ