第35話 フードの下の顔
白い影は、もう逃げなかった。
追わなかったから。息を乱さなかったから。――こちらのほうが、落ち着いていたからだ。
廊下の灯りの下で、影はゆっくりフードを外した。
「……っ」
そこにいたのは、神官でも侍女でもない。
宮廷医長ガレインのところで見たことのある、若い医療助手――いつも薬箱を抱えて、目を泳がせていた青年だった。
「あなた……」
声が出ない私は、代わりに紙に書いて見せる。
『名前は? 怖がらせない。大丈夫』
青年は唇を震わせて、かすれた声で答えた。
「……ソール、です……」
皇帝カイゼルが一歩前に出た。けれど怒鳴らない。低い声で言う。
「ソール。誰にやらされた」
「……医長に……」
その瞬間、ローガンの目が鋭くなった。フィンが息を呑む。
ソールは両手をぎゅっと握って続けた。
「ぼくは……ただ言われた通りに……“香りを混ぜろ”って。喉が痛くなる粉……声が出なくなるって……」
私は喉に手を当てて、ゆっくり頷く。
やっぱり、私の声を奪ったのは“薬”のほうだ。
私は紙に書く。
『どうして? 誰かが困るって分かってた?』
ソールは涙をこぼしながら首を振った。
「……最初は、“陛下のため”だって……眠ると危ないからって……」
ソールは顔を上げ、震える声で言った。
「でも、最近は違う。医長、笑うんです。“皇帝が眠れないほど、医者が必要になる”って……」
胸の奥が冷たくなった。
“必要にされるために、眠らせない”。それは守りじゃない。作った病気だ。
皇帝の気配が、氷みたいに冷える。
だけど私は皇帝の袖を軽くつまみ、“落ち着いて”の合図を送った。
皇帝は一拍おいて、息を吐いた。――約束を守ってくれる。
「ソール」
皇帝は目線を落として言う。
「もうやらなくていい。……話してくれたな」
「……っ」
ソールの肩が崩れた。
私は蜂蜜湯を差し出し、紙に書く。
『飲んで。息。ここは安全』
ソールが小さく頷いて飲むと、喉の震えが少し落ち着いた。
ローガンが低く言う。
「先生、医長の部屋、行くか」
私は首を振って、紙に書いた。
『今は行かない。夜に動くと相手の得意。昼に、確かめる』
皇帝が私の手をそっと握った。
声は出ないのに、その温度が「分かった」と言ってくる。
ソールが最後に、ぽつりと言った。
「……医長の机の引き出しに……鈴の金具……あります。高い音の……」
私は息を吸って、ゆっくり吐いた。
ようやく繋がった。高い鈴の“持ち主”へ。
私は紙に一行だけ書いて、皇帝に見せる。
『明日、終わらせよう。眠りも、声も、渡さない』
皇帝は短く頷いた。
「……ああ」
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