第32話 朝の約束と、残り香
朝の光が差し込むころ、私は椅子でうとうとしていた。
……いや、ちゃんと眠った。短くても、深く。そうじゃないと私が崩れる。
寝台の方から、布がすれる音。
皇帝カイゼルが起き上がっていた。いつもの鋭さはあるけど、目の奥の刺々しさが少し薄い。
「……朝だ」
「朝です。陛下、夢は?」
「……取られていない」
言い切ってから、少しだけ言い直すみたいに続けた。
「お前が、いた」
胸がふっと温かくなるのを、私は咳払いでごまかす。
「はい。約束したので」
そこへ扉が控えめにノックされた。ローガンだ。
「先生、起きてるか。……礼拝堂の窓に、白い粉が残ってた」
「月蜜花?」
「たぶん。匂いは薄いが、嫌な甘さだ」
私は窓を少し開けて、朝の空気を入れた。
「触らないで、風を通して。……見せたいものがあるなら、布に包んで」
ローガンが頷きかけた、そのとき。皇帝が短く言う。
「リュシアは先に食べろ」
「え?」
皇帝は机の上を指した。いつの間にか置かれていた、小さな皿。果物と、温かい湯。
「……眠りと水分だ。あと、甘いもの」
「陛下、覚えてたんですね」
「忘れるな。お前が倒れたら困る」
“困る”の言い方が、今日はいっそう不器用で、ちょっとだけ可笑しい。
私は果物をひとつ口に入れて頷いた。
「分かりました。じゃあ陛下も。飲んで」
「……命令か」
「お願いです」
「……了解」
ローガンが咳払いした。
「先生、もう一つ。昨夜の白い影、窓の外じゃなくて“中”を通ったかもしれねぇ。足音が変だった」
「中……」
私は考える。礼拝堂。粉。高い鈴。――逃げるとき、追わせないための演出。なら、隠れ道がある。
皇帝が低く言った。
「礼拝堂の裏を調べる」
「“調べる”は昼に。夜は守る」
私は言い切る。
「昼に見つけて、夜に奪わせない。順番が大事です」
皇帝は一拍置いて頷いた。
「……お前の順番に従う」
その瞬間、扉の下から、薄い紙がすっと滑り込んできた。
白い紙。黒い札じゃない。――“優しいふり”のほうだ。
『今夜は負けた。だから次は、あなたの“声”をもらう』
私は紙を握りしめ、息を吸ってゆっくり吐いた。
眠りの次は、声。つまり――私たちの合図や呼びかけを、壊しに来る。
皇帝が私を見た。
「怖いか」
「うん。でも大丈夫。息をしてる」
私は紙を折りたたみ、顔を上げる。
「声を奪われないように、合図は“音”だけじゃなく“目”でも作ろう。――今日はその準備」
ローガンがにやりと笑った。
「先生、そういうの得意だな」
「得意じゃない。必要だからやるだけ」
皇帝が小さく息を吐いて言った。
「……今日も、そばにいろ」
「はい。陛下も、ひとりで背負わないで」
朝の空気は冷たいのに、胸の奥は不思議と温かかった。
奪われそうなら、先に守る。
次は“声”――なら、私たちはもっと落ち着いた声で、もっと確かな合図で、夜に負けない。




