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第31話 夢は、渡さない

『今夜、皇帝の夢をもらう』


 白い紙の言葉が、夕暮れになっても消えなかった。

 だから私は、まず息を吸って、ゆっくり吐く。怖さは消えない。でも、抱えられる。


 皇帝カイゼルの前室。窓を少し開けて風を通し、灯りは強すぎないように落とす。

 机の上には温かい飲み物と、小さな布袋を二つ。弱い薬草の匂い――“戻ってくる合図”だ。


「今夜は、怖いと言っていい」

 私が言うと、皇帝は一拍おいて頷いた。


「……怖い」

「うん」

「……お前が、いなくなる夢を見そうだ」

 その言葉が、胸の奥にちくりと刺さる。


「私はここにいます。夢の中じゃなくて、今ここに」

 私は椅子を引いて、皇帝の視界に入る位置に座った。近すぎない、でも遠くない距離。


 廊下の向こうで、コン、コン。

 見張りの騎士たちの合図が返る。ローガンの声が小さく聞こえた。


「先生、いつでも。二人で動ける」

「ありがとう」


 皇帝は飲み物を一口飲んで、深呼吸をする。鼻で吸って、口で吐く。

 そして珍しく、ぽつりと言った。


「……昔、父が眠った夜に襲われた」

「……だから、眠るのが怖い」

「ああ」


 私は否定しない。代わりに、はっきり言う。

「でも今夜は違います。陛下は一人じゃない。――私も、騎士たちもいる」


 皇帝が私の方を見た。強い目なのに、どこか子どもみたいに不安が混ざっている。

「……そばにいろ」

「はい。約束します」


 それで、皇帝は寝台へ横になった。

 私は灯りをほんの少し落として、窓の風を保ったまま、椅子に座る。眠りを見張るんじゃない。“守る”ためにここにいる。


 夜半。


 ――ちりん。


 高い鈴の音が、どこか遠くで鳴った。

 すぐに廊下のあちこちで、コン、コン。合図が返る。誰も走らない。誰も一人にならない。


 皇帝の眉がぎゅっと寄った。呼吸が浅くなる。

 夢の中に、鈴が入り込もうとしている。


「陛下、聞こえますか。ここです」

 私は声を落として呼びかけ、そっと手を握った。冷たい。でも、離さない。


「鼻で吸って、口で吐いて。……そう」

 皇帝の息が少しだけ戻る。けれど、まだ戦っている顔だ。


 私は布袋を手のひらに乗せ、皇帝の指に触れさせた。

「これ。合図。――今の匂い、分かる?」

 皇帝の唇がわずかに動く。

「……草……」

「うん。ここは現実。夢じゃない」


 そのとき、窓の外で布が揺れた。白い影が、ガラスの向こうに一瞬だけ映る。

 鈴はもう鳴らないのに、気配だけが冷たい。


 廊下からローガンの低い声。

「先生、窓の外だ。二人で見てる。――追わねぇ、塞ぐだけ」


 私は小さく頷き、皇帝に囁いた。

「大丈夫。守ってくれてる」

 皇帝の眉が少しほどけた。


 それでも、最後の抵抗みたいに、皇帝がうわ言のように呟く。

「……行くな」

 胸がきゅっとなる。でも私は、揺れない声で答えた。


「行かない。ここにいる」

 そして、もう一度だけ。

「陛下、見えるものを言って。五つ」

「……天井。灯り。カーテン。……お前。……私の手」

「よし。戻れた」


 皇帝の呼吸が深くなり、肩の力が落ちた。

 夢が、鈴に持っていかれなかった。


 廊下の方で、かすかな足音。ローガンが戻ってくる気配。

 扉の隙間から、短い報告。


「白い影、消えた。置き土産は――これだけ」


 床を滑ってきた白い紙が、私の足元に止まった。


『今夜は、渡さないのね』


 私は紙を拾い上げ、息を吸って吐いた。

「ええ。渡しません」


 皇帝が少しだけ目を開けた。まだ眠気の中で、でも確かに私を見ている。

「……夢は、取られていないか」

「取られてません。ちゃんと戻りました」

 そう言うと、皇帝は小さく息を吐いて――ほんの少し笑った。


「……助かった」

「こちらこそ。陛下が頑張ったから」


 皇帝の手が、私の指を少しだけ強く握る。

「……明日も、そばにいてくれ」

「はい。もちろん」


 窓の外は静かだ。鈴の音もない。

 でも私は知っている。敵は諦めていない。


 それでも今夜は、勝った。

 夢を、渡さなかった。

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