第29話 高い鈴を鳴らす影
ニコを安全な部屋に落ち着かせて、私は廊下に戻った。
まだ耳の奥に、あの高い鈴の余韻が残っている。
「……杖の先に鈴」
ローガンが低く繰り返す。
「侍女長の鈴とは別物だな」
「うん。別の人。別のやり方」
皇帝カイゼルは、黙って私の外套の襟を直した。寒さよけみたいに、でも“離すな”って言ってるみたいに。
「陛下、息」
「……分かっている」
短く答えたあと、ちゃんと深く息を吐く。えらい。
私は小さく机を叩く。コン、コン。
廊下のあちこちで、同じ音が返った。誰も走らない。誰も一人にならない。――それだけで、夜の怖さが薄くなる。
「来るなら、ここ」
私が示したのは洗濯室の前。布の匂いは甘い匂いを少しだけ消してくれるし、窓も近い。風を通せる。
しばらくして、空気が動いた。
甘い匂い――ではなく、ひんやりした香り。夜の礼拝堂みたいな冷たさ。
そして――ちりん。
高い音。
廊下の角の向こうに、白い影が立っていた。杖の先がきらりと光る。
影は、こちらの様子を見ている。まるで「一人で来い」と言いたげに。
私は一歩も前に出ない。代わりに、静かに言った。
「ここは騎士団です。勝手に入らないで」
返事はない。けれど鈴が、ちりん、ともう一度鳴った。
その瞬間、皇帝の気配が鋭くなる。私は袖をつまんで止めた。
「追わない」
「……分かった」
悔しそうでも、約束を守る。
影が動いた。逃げるでもなく、こちらへ近づくでもなく――床に何かを落とす。白い紙。
『お医者さま、ひとりで』
私は思わず笑ってしまった。
「残念。ひとりでは行かない」
ちりん。
鈴が苛立ったみたいに鳴る。影が身を翻した、そのとき。
コン、コン。
左右から返る合図。ローガンとフィンが角の先に立ち、逃げ道を“ふさぐ”だけで追わない。
影は止まった。止まらざるを得ない。
「……っ」
フードの奥から、息を呑む気配。
私は一歩だけ近づいて、でも距離は保った。
「あなたも、怖いの?」
影が揺れる。杖の鈴が、弱く鳴った。ちりん。
「怖いなら、息をして。……誰かを眠らせないと落ち着けないなら、それは助けが必要だよ」
返事はない。けれど、杖を握る手が震えた。
次の瞬間、影は杖を落とした。鈴が床で転がり、小さく鳴る。
ちりん、ちりん。――逃げるための音。
「逃がさない」
皇帝の声が低く落ちた。怒鳴らない。ただ、揺れない。
影は走り去ろうとして、足を止めた。追われないのに止まる。
……逃げ場がないと分かったのだ。
そして、影は白い布だけを残して消えた。フードが床に落ちる。
中から転がり出たのは、小さな金具。神殿の印が刻まれていた。
私はそれを拾い、息を吐いた。
(やっと、掴めた。高い鈴の“しっぽ”)
皇帝が私の隣で言った。
「リュシア。もう一度言う。……お前を一人にしない」
「うん。私も。みんなを一人にしない」
床に残った鈴は、もう鳴らない。
でも次の夜は、もっと近い。――神殿の印が示す場所へ。




