第28話 「助けて」の主
『お医者さま、助けて』
白い紙を見た瞬間、胸がきゅっと冷えた。けれど私は、息を吸ってゆっくり吐く。焦ったら、相手の思う通りに動く。
「行きます。でも二人で」
「……ああ」
皇帝カイゼルが頷く。短い返事なのに、背中が少し軽くなった。
扉を出る前に、私は机を――コン、コン。二回。
すぐ廊下のどこかから、同じ音が返ってくる。誰かが見ている。私たちは一人じゃない。
紙の端に、雑な矢印と「洗濯室の奥」とだけ書いてある。
私たちは走らず、速足で向かった。
角を曲がった瞬間、ふわり。甘い匂い。
「窓」
私が短く言うと、近くの見張りの騎士がすぐ窓を開けた。冷たい風が通り、匂いが薄まる。
「息は口で短く。吸わない」
私が言うと、皇帝も同じように息を整えた。約束を守ってくれるのが、今は何よりありがたい。
洗濯室の奥――布の山の陰から、小さな声がした。
「……こっち……」
そこにいたのは、従者のニコだった。膝を抱えて震えている。手には、小さな袋。月蜜花の粉が付いていて、甘い匂いの元だとすぐ分かった。
「ニコ」
私はしゃがんで目線を合わせる。
「大丈夫。怒らない。まず、息。鼻で吸って、口で吐く」
ニコの肩が少しずつ下がる。涙がぽろっと落ちた。
「ぼく……また運べって言われた……。陛下の飲み物に混ぜろって……“眠れるようになる”って……でも、違うって分かった……怖くて……」
「紙、あなたが?」
私が聞くと、ニコはこくりと頷いた。
「先生なら……止めてくれると思って……」
背後で、皇帝が一歩前に出る気配。けれど声は低く、やわらかかった。
「よく来た。……よく止まった」
ニコが驚いた顔で皇帝を見る。
皇帝はしゃがみ込み、ニコと同じ高さで言った。
「お前のせいではない。……助かった」
その一言で、ニコの肩の震えが少しだけ弱まった。
私は袋を布で包み、匂いが広がらないように縛る。
「言った人、どんな人だった?」
ニコは必死に思い出して、震える声で言った。
「顔は……見えなかった。でも、手に杖を持ってた。先っぽに、小さい鈴……高い音の……ちりん、って……」
――もう一つの鈴。
その瞬間、廊下の奥で、本当に小さく――ちりん。
私たち全員が息を止めた。
薄暗い廊下の先、白い影が一瞬だけ見えた。杖の先が揺れて、鈴が光る。
でも追わない。追ったら、ニコがまた怖くなる。
私は机を――コン、コン。二回。
合図が返る。足音が増える。守る距離が近づく。
皇帝が私の隣で、低く言った。
「……もう逃がさない」
「うん。でも、まずはニコを安全な場所へ」
ニコが私の袖を掴んだ。
「先生……ぼく、悪くない?」
「悪くない。あなたは“助けて”って言えた。――それは強いよ」
風がまた通り、甘い匂いが消えていく。
残ったのは、鈴の高い音の余韻だけ。
(見えた。杖。高い鈴。――次は、あの影を“追わずに捕まえる”)
私はもう一度、息を吸ってゆっくり吐いた。




