第27話 「守るふり」をやめた夜
黒い札の言葉が、手の中で冷たい。
『守るふりは、疲れるだろう』
――狙いはそこだ。疲れさせて、息を乱させて、判断を鈍らせる。
私は札を机の上に置き、窓を少し開けた。冷たい夜気が入る。
「今日は、もう探さない」
ローガンが眉をひそめる。
「逃がすのか」
「逃がすんじゃない。……“追わない”だけ。追わせたいのは向こうだから」
皇帝カイゼルが低く言う。
「次に来たら」
「来たら、合図。二人で動く。窓を開ける。息を整える。――それだけで十分」
フィンが頷いた。
「先生、俺、分かってきた。焦ると負けるんだな」
「うん。焦ると、相手の思う通りに動く。……私たちは動き方を選べる」
その夜、騎士団の廊下はいつもより明るかった。ランプを増やしたわけじゃない。みんなの目が、ちゃんと前を見ているからだ。
誰も一人で立たない。二人組で歩く。扉は閉める前に、風を通す。匂いがしたら、すぐ窓。
私は前室の椅子に座り、皇帝に温かい飲み物を渡した。
「陛下。今夜は“守るふり”をやめましょう」
「……どういう意味だ」
「怖いなら怖いって言う。疲れてるなら疲れてるって言う。そうしたら、匂いも音も入りづらい」
皇帝は少しだけ唇を結び、それから低く言った。
「……疲れている」
「うん」
「……怖い」
「うん」
私は頷くだけ。否定しない。大丈夫だと言いすぎない。言葉で無理をさせない。
そのとき、廊下の奥で――ちりん。
鈴が鳴った。
でも、昨日までと違った。
誰も走らない。誰も叫ばない。代わりに――
コン、コン。
二回の音。
別の場所でも、コン、コン。
合図が、静かに広がっていく。
ローガンが扉の隙間から顔を出した。
「北廊下。白い影、出た。二人で見てる。……追ってない」
「ありがとう。今はそれでいい」
私は窓を少し開け、風を通す。甘い匂いが来ても、ここには入れない。
数分後、ローガンが戻ってきた。手には、何もない。
「逃げた。……だが、置き土産もない」
それが逆に不気味だった。
何も残さないのは、“残す必要がない”から。
皇帝が静かに言った。
「……目的が変わった」
「うん。焦らせるのを諦めた。次は、別のやり方で崩す」
私は深呼吸して、机の上の布袋を指で押さえた。
合図の匂い。戻ってくる匂い。今夜はそれが、やけに頼もしい。
そのとき、扉の下から、すっと紙が滑り込んできた。
黒い札より薄い、白い紙。
そこに書かれていたのは、たった一言。
『お医者さま、助けて』
――また“味方の手”だ。
でも私は、もう一人で動かない。
私は皇帝を見る。
「行きます。でも、二人で」
皇帝が頷く。
「ああ。……お前を一人にしない」
“守るふり”はやめた。
守るのは、ふりじゃない。今夜も、本当に守る。




