第23話 合図の音を、盗まれた
翌朝、私は廊下の窓を開けながら、昨日の紙を思い出していた。
『怖くないふりをするな』――ふりなんてしてない。怖いから、息をする。
「先生、寝た?」
フィンが心配そうにのぞき込む。
「寝たよ。ちゃんとね」
「……ほんとだな? 目、赤くない」
「監視するな」
そう言いながら笑ったら、フィンも少し安心した顔をした。
そのとき、床に落ちている小さな黒い紙に気づいた。昨日の札より薄く、急いで切ったみたいに端がガタガタしている。
『その合図、もう聞いている』
胸がひやりとした。――盗み聞き、じゃない。盗まれたのは“音”だ。
私は息を吸って、ゆっくり吐く。焦らない。焦ったら、相手の思うつぼ。
背後に気配。皇帝カイゼルが来ていた。
「……それか」
「はい。合図、真似されるかもしれません」
皇帝は私から紙を受け取り、握りつぶしかけて――やめた。怒りを飲み込んだのが分かる。
「では、奪い返す」
「壊すんじゃなくて、取り返す。……音は、怖さじゃないって教え直します」
昼過ぎ、礼拝堂の前を通ると、いつもあるはずの鈴がない。紐だけが、ぽつんと揺れていた。
「……持ち出された」
ローガンが低く言う。
「鈴が自由に鳴るなら、どこでも“ちりん”が起こせる」
その直後だった。廊下の奥で、かすかな――ちりん。
近い。
私たちは走らず、速足で音の方へ向かった。角を曲がった先、洗濯室の前で、小柄な少年が立ち尽くしていた。手に、あの鈴。
「や、やめてって言ったのに……!」
少年は泣きそうな顔で鈴を握りしめる。甘い花の匂いが、薄く漂った。
私はしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫。怒らない。名前は?」
「……ネロ」
「ネロ。誰に“鳴らせ”って言われたの?」
「優しい声の人が……『これで陛下を悪夢から守れる』って……。ぼく、役に立てるって……」
まただ。優しい声。弱い子を“いい子”にして動かすやり方。
皇帝が一歩前に出た。けれど声は低く、抑えている。
「ネロ。お前は悪くない。……だが、その鈴は渡せ」
ネロの手が震える。私はそっと手を添えた。
「鼻で吸って、口で吐いて。そう。渡せるよ」
ネロが鈴を差し出した瞬間、背後の廊下に影が走った。白い布が翻り、甘い匂いが一瞬濃くなる。
「待って!」
ローガンが動こうとしたのを、私は手で止めた。
「追うと転ぶ。ネロが怖がる。今はこっちが先」
影は曲がり角の先へ消えた。けれど、床に一つだけ落ちていた。
白い手袋。指先に、月蜜花の粉がきらきら光っている。
皇帝が手袋を拾い、低く言った。
「……近い。城の中だ」
私は頷いて、息を整えた。
「うん。だから見つけられる。――もう“音”も“眠り”も、渡さない」
手袋の奥から、かすかな鈴の余韻が聞こえた気がした。ちりん、と。
まるで「次はもっと近くで」と言うみたいに。




