第22話 眠りを守る合図
その夜は、いつもより静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。――敵がいない夜じゃない。息を潜めている夜だ。
私は前室の窓を少し開け、冷たい空気を入れた。甘い匂いが入ってくるなら、まず流す。
皇帝カイゼルは椅子に座り、私を見る。
「……眠れ」
「はい。陛下も」
私は布袋を三つ、机に並べた。
薬草の匂い。弱く、やさしく、でも“戻ってくる”合図になる匂い。
「この三つ、置き場所を変えます」
「何のためだ」
「嫌な匂いが来たときに、“ここは安全”って分かるように。匂いで操られるなら、匂いで守る」
皇帝は眉を動かした。
「……お前は、敵の武器を奪う」
「奪うっていうより、上書きする」
廊下の向こうで、軽い足音。
ローガンが顔を出す。
「先生、全員に伝えた。『一人で動かない』『匂いを感じたら窓を開ける』『息を整える』。……あとは、鈴の音がしたら合図だな」
「うん。合図はこれにしよう」
私は机を軽く叩いた。
コン、コン。短く二回。
「鈴が鳴ったら、これ。二回叩く。遠くまで響くし、誰でもできる」
「分かった」ローガンが頷く。「誰かが倒れそうでも、二回叩いてから動く。先生だけ呼ぶ札は無視する」
フィンも真剣な顔で言った。
「俺、ちゃんと見張る。……先生を一人にしない」
その言葉が、胸にあたたかく落ちた。
私は笑って、うん、と頷く。
「ありがとう。じゃあ――寝る準備。陛下、深呼吸」
「……分かった」
皇帝の呼吸が落ち着いたころ、廊下の奥から、ちりん。
鈴の音がした。
次の瞬間。
コン、コン。
どこかの部屋で机が叩かれる音。すぐに別の場所でも、コン、コン。
鈴の音より早く、合図が広がった。
私は背筋がぞくっとした。
(いい。これなら、敵のほうが落ち着かない)
ローガンが小声で言う。
「……見回り行く」
「ううん。まず“誰かが一人じゃない”って確認してから。焦らない」
ローガンは頷いて、二人組で動くよう指示を飛ばした。
しばらくして、廊下の向こうから小さな声。
「……見つけた。白い布が落ちてる」
私は窓を開けたまま、匂いが入らないようにして待つ。
戻ってきた騎士が持ってきたのは、白い布の小袋――でも、前より雑だった。結び目が荒い。匂いも弱い。
「急いで作ったね」
マルタが言う。
「焦ってる。合図が広がったから」
皇帝が低い声で言った。
「……効いている」
「うん。私たちのほうが落ち着いてる」
そのとき、床に小さな紙が落ちているのが見えた。
拾い上げると、短い文字。
『怖くないふりをするな』
私は思わず笑ってしまった。
「ふり、してません。怖いから息をしてるんです」
皇帝が、珍しく小さく息を吐く。
「……それが強さか」
「強さじゃない。“生き方”です」
鈴の音は、それきり鳴らなかった。
夜は長いけれど、今夜は違う。
眠りを奪う側が、初めて“落ち着けなくなった”夜だった。




