第21話 「助けて」の匂い
「先生! 至急……誰かが、倒れそうで……!」
扉の外の声は焦っていた。けれど私は、すぐに息を吸って、ゆっくり吐いた。
焦ると、判断が遅れる。
「一人で行かない」
私が言うと、皇帝カイゼルは短く頷いた。ローガンもフィンも、迷わず付いてくる。
案内されたのは、廊下の突き当たり。壁にもたれて、若い騎士が座り込んでいた。顔が真っ青で、肩で息をしている。足元には、紙切れが一枚。
「……胸が、苦しい……」
「大丈夫。今、ここ。私の声、聞こえる?」
私は目線を合わせて言う。
「鼻で吸って、口で吐く。ゆっくり。数えなくていい、私のリズムに合わせて」
騎士の呼吸が少しずつ落ち着く。私は濡れ布で額を冷やし、温かい湯を少しだけ口に含ませた。
すると、ふわり。甘い花の匂いが鼻先をかすめる。
(……この匂い、また)
ローガンが周囲を見回して、低く言った。
「先生、これ……」
壁の陰に、小さな袋が落ちている。見覚えのある白い布。私は布で包んだまま拾い、窓を開けさせた。冷たい空気が流れ込む。
「匂いは吸わない。まず風を通す」
フィンが慌てて窓を開け、廊下の空気が少し軽くなる。
床の紙切れを、マルタが拾って差し出した。
「これ、さっきの子が握ってた」
紙には短い文字。
『先生だけ来て。助けて』
私は唇を噛んだ。
――“味方”を使う。まさにこれだ。怖がらせて、呼び出して、匂いを近づける。
騎士が震えながら言う。
「これを見たら……頭が、ぐらってして……先生を呼べって、思って……」
「呼んでくれて正解。あなたは悪くない」
私はきっぱり言って、肩を軽く叩いた。
「でも次からは、“先生だけ”って書いてあっても、誰かと一緒に来る。約束できる?」
「……はい」
カイゼルが、甘い匂いの袋を見下ろして言った。
「同じ手口だ。……お前を動かして、疲れさせる」
「うん。だから動かされ方を変える」
私は顔を上げる。
「助けは行く。でも、必ず誰かと。必ず息を整えて。必ず窓を開けて」
皇帝は少しだけ目を細めた。
「……お前の“必ず”は、強いな」
「命に関わることは、強く言います」
そのとき、廊下の奥で――ちりん。
鈴の音が、ひとつ。すぐに遠ざかる。
ローガンが反射で動きかけたが、私は首を振った。
「追わない。今はこの子を落ち着かせるのが先」
ローガンは悔しそうに舌打ちして、それでも頷いた。
騎士の顔色が戻り、呼吸が整ったのを見届けてから、私は立ち上がった。
その瞬間、皇帝が私の肩にそっと手を置く。
「……リュシア。今夜はもう働くな」
「まだ大丈夫です」
「大丈夫と言う者ほど、無理をする」
図星で、私は一瞬言葉に詰まった。
皇帝は少しだけ声を落として言う。
「頼む。今日は、守られる側になれ」
胸の奥がふっと熱くなるのを、私は深呼吸でごまかした。
「……分かりました。陛下も寝てくださいね」
「ああ。……一緒に“眠るための約束”を守る」
甘い匂いはまだどこかにいる。
でも、私たちはもう“一人で呼び出される”ほど弱くない。




