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第20話 味方の手から、香りが届く

『眠りを選ぶなら、次は“味方”から奪う』


 黒い札の言葉が、頭から離れないまま夜が来た。

 私は窓を少し開け、冷たい空気を入れる。匂いが入り込むなら、まず流す。深呼吸。――大丈夫、息は整ってる。


 皇帝カイゼルは前室の椅子に座り、私を見る。

「……今夜も、来るのか」

「来ても、負けません。陛下は“寝る”のが最優先です」

「分かっている」


 そこへ、控えめなノック。

 扉の隙間から顔を出したのは、小柄な若い従者だった。まだあどけない。手には銀の盆と、小さな瓶。


「陛下、就寝前のお飲み物を……神殿から“安らぎの香”も預かっております」

 甘い匂いが、ふわっと広がった。


 私は反射で一歩前に出た。

「止めて。盆を置いて、窓の方へ」

「え……?」

「いいから。鼻で吸わない、口で短く息を吐いて」


 従者はきょとんとしながらも従い、盆を置いた。

 皇帝の目が鋭くなる。けれど、怒鳴らない。私の言う通り、ただ息を整えている。


 私は瓶を布で包み、匂いが広がらないように押さえた。

「これ、どこで受け取ったの?」

「礼拝堂の……優しい声の神官さまが……『陛下の眠りのため』って……」


 従者の声が震えた。目が潤んでいる。

 私はしゃがみ、目線を合わせる。


「名前は?」

「……ニコ」

「ニコ。あなたが悪いわけじゃない。……でも、これは“眠りのため”じゃない」


 皇帝が低く言う。

「ニコ。誰に頼まれた」

「神官さまが……それで、ぼくの母の病の祈りも、してくれるって……」


 その瞬間、皇帝の拳がぎゅっと握られた。

 怒りが、彼の中で暴れそうになるのが分かる。


 私は皇帝の方を向かずに、静かに言った。

「陛下。約束。怖がらせない」

 皇帝は一拍置いて、息を吐いた。

「……分かった」


 私はニコの肩を軽く叩く。

「ニコ、ありがとう。ここまで運んでくれたから、止められた。――今夜は戻って、温かいもの飲んで寝て」

「……怒られない?」

「怒らない。あなたは、もう“味方”だよ」


 ニコが涙をこぼしながら頷いたとき、廊下の奥で――ちりん。

 鈴の音が、一つ。遠ざかる気配。


 ローガンが影みたいに現れ、低い声で言う。

「今の、聞いたな」

「うん。……やっぱり“味方の手”を使うつもりだ」


 皇帝が私の方へ半歩寄る。

「リュシア。お前まで使われたら――」

「大丈夫。私は“優しい声”に負けない。息をするから」


 そう言いながらも、胸の奥が冷たかった。

 敵は、ただ眠りを奪いたいんじゃない。私たちの中の誰かを、罪悪感で縛って動かしたいんだ。


 そのとき、別のノックがした。さっきより強い。焦った声。


「せ、先生! 至急……誰かが、倒れそうで……!」

 扉の外から、甘い匂いが、ほんの少しだけ混じって流れ込んだ。


 私は立ち上がり、息を吸って吐く。

 そして皇帝を見る。


「……行きます。でも一人では行かない」

「ああ」

 皇帝の声が低く落ちる。

「今夜は、誰も一人にしない」


 扉を開ける前、私はもう一度だけ深呼吸した。

 味方の手から届く罠なら――味方の手で、守り返す。

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