第19話 眠らない“祈り”はいらない
「陛下。あなたは眠るべきではありませんよ」
神官の声は、相変わらず優しい。
だからこそ、背中がぞくりとした。――“優しさ”で人を縛る声だ。
皇帝カイゼルの目が冷える。けれど、怒鳴らない。約束を守っている。
「その鈴を外せ」
神官の腰元で、ちりん、と小さく揺れた。
「これは祈りの印です。外す理由が――」
「ある」
皇帝は短く言い切る。「今、この城でその音は“怖さ”になる」
エリナが小さく震えた。私はそっと前に出て、彼女の視界から神官を少し隠す。
「神官さま」
「はい、リュシア様」
呼ばれ慣れたみたいに、神官は私の名前を口にした。甘い匂いが、ほんの少し濃くなる。
「“眠るべきではない”って、どういう意味ですか」
「簡単なことです。眠れば、守れなくなる」
「逆です」私ははっきり言う。「眠れないと、守れなくなる」
神官は笑みを崩さない。
「あなたはまだ若い。恐れを知らない」
「知ってます。だから呼吸するんです」
私は机の上の小さな布袋を手に取った。弱い薬草の匂い。きつくない、ただ“戻ってくる合図”になる匂い。
「これ、いまここで匂いを強くしません。誰かを操るためじゃなくて、落ち着くための合図です」
神官の目が、一瞬だけ細くなる。
「人の心は、もっと簡単に動きますよ。――香りと音で」
ちりん。鈴がまた鳴った。
その瞬間、フィンが顔をしかめた。ローガンが一歩前に出る。マルタが無言で窓を開け、冷たい空気を流し込んだ。
匂いが少し薄まる。私は息を吸って、吐いて、言った。
「神官さま。お願いがあります」
「お願い?」
「この場で、鈴を鳴らさないで。……それだけでいいんです」
神官は一拍置いてから、柔らかく首を振った。
「それはできません。祈りは、鳴らさねば届かない」
「届いてます」私はまっすぐ返す。「怖さとして」
皇帝が、私の横に立った。
肩が触れない距離で、でも“守る”距離。
「神官。ここから出ろ」
「陛下」
「今すぐだ」
神官はゆっくりと息を吐き、笑ったまま一礼した。
「分かりました。ですが――眠りを選んだ者は、夢に呑まれます」
その言葉を残して、神官は扉へ向かう。
去り際、腰の鈴が最後に一度だけ、ちりん、と鳴った。
扉が閉まった瞬間、エリナが崩れるように座り込んだ。
「……怖かった……」
「うん」私は隣にしゃがむ。「怖いのは当たり前。だから、今は息」
エリナが鼻で吸って、口で吐く。
フィンも真似をする。ローガンがぼそっと言った。
「……先生、あいつの声、腹立つくらい優しいな」
「うん。だから気をつけよう。優しい声ほど、人を黙らせることがある」
皇帝は窓の外を見ていた。拳は握っているのに、声は低く落ち着いている。
「リュシア」
「はい」
「怖いのは……私だけではないな」
「うん。でも一人じゃない。今は、みんなで守れる」
皇帝は短く頷き、珍しく言い直すように言った。
「……頼む。今夜も、そばにいてくれ」
「はい。その代わり、陛下も寝る。約束です」
そのとき、床に何かが落ちた。
黒い札。いつの間に。
『眠りを選ぶなら、次は“味方”から奪う』
私は札を握りしめた。胸が冷たくなる。
でも、息は乱さない。乱したら、負ける。
「陛下」
「ああ」
皇帝の声が低く響く。「――今夜は、誰も一人にしない」
甘い匂いは消えたのに、嫌な予感だけが残った。
敵は、また“弱いところ”を狙ってくる。今度は、私たちのすぐそばの――“味方”を。




