表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/138

第17話 甘い匂いの“近さ”

 温室の扉は閉まっているのに、甘い匂いだけが残っていた。

 月蜜花――ここでしか育てていない花。


「……近いね」

 私がぽつりと言うと、皇帝カイゼルの目が細くなる。怒っているのに、どこか焦っている顔だ。


「近いなら、捕まえられる」

「うん。でも、追い詰めすぎない。追い詰めると、誰かが傷つく」


 ローガンが短くうなずいた。

「先生の言う通りだ。……まずは、夜を越える」


 その夜。私は前室の窓を少しだけ開け、空気を入れ替えた。匂いに負けないように、息を深くする。

 皇帝は渋い顔をしながらも、ちゃんと飲み物を飲んで、呼吸をして、寝台へ向かった。――えらい。


「陛下。今夜は、私が“合図”を持ってます」

 私は小さな布袋を見せる。弱い薬草の匂い。

「嫌な夢を見たら、これを握ってください。現実に戻る合図」

「……分かった」


 静かになった頃、廊下の向こうで、ちりん。

 鈴の音がした。ひとつだけ。近い。


 ローガンが影のように動く。マルタは扉の陰で息を潜める。フィンも、歯を食いしばって待っている。

 私は“走らない”まま、そっと扉を開けた。


 廊下の端に、白い影。

 細い人影が、何かを床に置こうとしている。手袋をした指先。――その袖口に、温室の花の粉が付いていた。


「待って」

 私が言うと、影がびくっと跳ねる。逃げようとした瞬間、ローガンが前に立った。


「止まれ。転ぶぞ」

 怖い声なのに、言葉は優しい。


 白い影はその場にしゃがみ込み、震えながらフードを下ろした。若い侍女だった。目は涙でいっぱい。


「ご、ごめんなさい……! わ、私は……ただ……」

「大丈夫。怒鳴らないよ」

 私はしゃがんで、侍女の目線まで下りる。

「息。鼻で吸って、口で吐く。ゆっくり」


 侍女の肩が少し落ちた。


「名前は?」

「……エリナ」

「エリナ。どうして、こんなことをしたの?」

「言われたんです……『これを置けば、みんな眠れなくなる』って。逆らったら、私の家族が……」


 床に置かれかけていたのは、あの甘い匂いの小袋。鈴は、エリナの腰から下がっていた。

 私は鈴に目を向ける。


「それ、あなたの?」

「……違います。昨日、渡されました。礼拝堂の裏で。顔は見えなくて……でも、手が冷たくて、香りが甘くて……」


 皇帝が背後から歩み出た。気配だけで、廊下の空気が変わる。

 エリナが青ざめて縮こまる。


「陛下……っ」

「怖がらせない」

 皇帝は低く言った。誰に向けた言葉か分からないくらい、ぎりぎりで抑えた声。


 私は皇帝を見上げ、小さく首を振る。

(今は、怒りより先に守る)


「エリナ。あなたは、悪い子じゃない。利用された」

 私はそっと小袋を布で包み、匂いが広がらないように押さえた。

「もう大丈夫。ここにいる人たちは、あなたを責めない」


 エリナがぽろぽろ泣きながら言った。

「……温室の鍵、見せられました。『陛下の近くの人なら持ってる』って……」


 “陛下の近く”。

 私の胸が、ひやりと冷える。


 皇帝が一歩、私の前に立った。

「リュシア」

「大丈夫。息、整ってます」


 そう言って笑ったつもりなのに、皇帝は私の肩にそっと外套をかけた。寒さじゃなく、不安を隠すみたいに。


「……お前が震えるのは、許可しない」

「そんな許可、初めて聞きました」


 小さく笑うと、ローガンが咳払いをした。

「先生、話はあとだ。今夜はもう一回、来るかもしれねぇ」

 私は頷く。


「うん。だから――今夜は、みんなで守ろう。眠りも、エリナも」


 甘い匂いは、もう“外”だけのものじゃない。

 敵は近い。けれど、私たちも近い。誰も一人にしない距離で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ